第14話 鏡の中の私 2
翌週、時輪は一人で理沙のアパートを訪れた。中村看護師は別の緊急訪問があり、代わりに時輪がカンファレンスも兼ねて様子を見ることになっていた。
インターホンを押すと、前回よりも早く応答があった。
「どうぞ」
ドアを開けると、理沙は前回と同じくベッドの端に座っていた。部屋の様子は先週とほとんど変わっていなかったが、テーブルの上は少し片付けられていた。
「こんにちは、調子はいかがですか?」時輪は尋ねた。
理沙は微かに頷いた。「薬は…ちゃんと飲んでます」
「それはよかったです」時輪は彼女の向かいに座った。「少しお話ししてもいいですか?」
理沙は黙ったまま、小さく頷いた。
「前回、トイレから出たくないとおっしゃっていましたが、何か理由があるのでしょうか?」
理沙はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で話し始めた。
「トイレには…鏡がないんです」
「鏡が…?」
「私は鏡を見るのが怖いんです」理沙は視線を落とした。「鏡の中の自分が、私じゃないように感じるから」
時輪は静かに理沙の言葉を待った。
「今の私は、あの時の私じゃない」理沙は続けた。「あの時の私は、明るくて、自信があって、美しかった。でも今の私は…」
「あの時というのは?」
「拓人と付き合っていた頃です」理沙の目に涙が浮かんだ。
「彼は同じ会社の人で、優しくて、才能があって…私のことを特別だと言ってくれた」
時輪はゆっくりと頷いた。「それで、何があったのですか?」
理沙は深く息を吸い、言葉を絞り出すように話し始めた。
「私の気分が落ちた時、彼は理解できなかった。『この前まで元気だったのに、なんでこんなに暗くなるんだ?』って。でも私には説明できなかった。自分でも分からなかったから」
彼女は手の甲で涙を拭った。
「最後に彼が言ったのは…『お前は気まぐれすぎる。一緒にいると疲れる』って」
時輪は静かに言った。「それはつらかったですね」
「はい」理沙の声が震えた。
「でも彼は間違っていなかった。私は本当に気まぐれで、自分でも自分をコントロールできないんです。だから…誰とも一緒にいられない」
「違いますよ」時輪はやさしく、しかし確かな声で言った。
「あなたは気まぐれなのではなく、病気なんです。双極性障害という病気は、気分の波が大きくなります。でもそれは治療できます」
理沙は顔を上げ、時輪の目を見た。「本当に?」
「はい。薬物療法と、考え方のパターンを変える認知行動療法を組み合わせると、多くの方が安定して生活できるようになります」
「でも私は…」
「理沙さん」時輪は優しく続けた。「病気であることは、あなたの人間性や才能を否定するものではありません。むしろ、あなたのような感受性豊かな方は、創造的な仕事で素晴らしい才能を発揮することが多いんですよ」
理沙は黙ったまま、時輪の言葉を吸収するように聴いていた。
「ところで」時輪は視線をテーブルの上のノートに移した。「先週、少し気になる言葉を見かけました。『消えたい』という言葉ですが…」
理沙はハッとした表情を浮かべた。「あ、それは…」
長い沈黙の後、理沙はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「時々、消えてしまいたいと思います。この苦しさから逃れたくて。でも…」彼女は一瞬躊躇った。「具体的に何かをするつもりはないんです。ただ…この感情が怖くて」
時輪は理解を示すように頷いた。「そういう気持ちになることは自然なことです。でも、そんな時こそ助けを求めることが大切です」
「でも、迷惑をかけたくなくて」
「誰かを心配させることと、迷惑をかけることは違います」時輪は優しく言った。
「あなたは大切な存在です。助けを求めることは勇気ある行動なんですよ」
理沙の目から一筋の涙が流れ落ちた。
「理沙さん、もしよければクリニックに戻りませんか?」時輪は提案した。「最初は大変かもしれませんが、一歩ずつ進んでいきましょう」
理沙は長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。「…はい」
その日の帰り道、時輪は桜並木の道を歩きながら考えていた。
人は誰しも、目に見えない荷物を背負っている。理沙さんの荷物は、双極性障害という名の波だ。高く上がるときもあれば、深く沈むときもある。…でも彼女は一人じゃない。
時輪は空を見上げた。薄曇りの空の隙間から、わずかに青が見えていた。
明日も、また一歩ずつ。
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一週間後、五反田クリニックの待合室に、鈴木理沙の姿があった。髪は少しだけ整えられ、前回より少し色のある服を着ていた。
時輪が彼女の名前を呼ぶと、理沙はゆっくりと立ち上がり、小さな声で言った。
「来ました」
「よく来てくれましたね!」時輪は微笑んだ。「今日からまた一緒に歩いていきましょう」
相談室に入ると、理沙はおずおずと言った。「山科さん、私の話を聞いてもらえますか?」
「もちろんです!」時輪は穏やかに応えた。「どんなことでも」
理沙は深く息を吸い、ゆっくりと話し始めた。
「私が初めて絵を描いたのは5歳の時でした。母が買ってくれたクレヨンで…」
窓から差し込む光が、ゆっくりと部屋を満たしていく。理沙の声は小さいながらも、確かな存在感を持って空間に広がっていった。
彼女の物語の一ページが今、ここで開かれた。




