第13話 鏡の中の私 1
「私はね、今すごく良いプロジェクトに関わってるんですよ!」
五反田クリニックの相談室で、鈴木理沙は椅子の背もたれに深く体重をかけることなく、背筋を伸ばしたまま話し続けていた。肩にかかる黒髪はつややかに整えられ、ライトブルーのワンピースは彼女の肌の透明感を引き立てていた。
「大手化粧品メーカーのブランディングリニューアルなんですけど、私のデザイン案が採用されて、もう毎日制作が楽しくて仕方ないんです。クライアントからの評判も上々で」
テーブルの向かいで、山科時輪は穏やかに頷きながら、理沙の表情を観察していた。瞳の奥に潜む異様な輝き。わずかに速すぎる言葉の速度。そして、普段は社交不安を抱える彼女には珍しい饒舌さ。
「そうですか。とても充実していらっしゃるようですね」
時輪は静かに言った。週に一度のカウンセリングで、理沙がこれほど活力に満ちた状態を見せるのは、ここ数週間続いていた。
「ええ!それから新しいクライアントからもオファーが来てて、今月中に三件の企画書を仕上げないといけないんですけど、全然大丈夫。むしろアイデアが溢れすぎて困るくらい」
理沙は椅子の上で小さくバウンドした。「それに、私のポートフォリオサイトも全面リニューアルしたんです。一晩で仕上げちゃいました。眠る必要もないくらい集中できて」
時輪はそっと視線を落とし、理沙のカルテに目を通した。
_鈴木理沙(32歳)双極II型障害、社交不安障害_
_ラモトリギン200mg/日、エスシタロプラム10mg/日_
_ここ3週間、軽躁状態が持続。服薬アドヒアランスの低下が懸念される。_
「理沙さん、お薬はきちんと飲めていますか?」
理沙の動きが一瞬止まった。
「あ、それが…忙しくて何日か忘れちゃったかも」彼女は少し歯切れ悪く言った。「でも大丈夫ですよ。むしろ調子がいいので、お薬の必要ないくらいです」
時輪は辛抱強く説明を始めた。「調子が良い時こそ、薬を続けることが大切なんですよ。それが…」
「もちろんわかってます」理沙が言葉を遮った。「でも本当に今は絶好調で。こんなに仕事がはかどるのに、薬で鈍らせるのはもったいないというか…」
彼女の言葉は、まるで小川のせせらぎのように途切れることなく続いた。時輪はただ静かに聴き、時折頷きながら、理沙の状態を注意深く観察し続けた。
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それから二週間後、予約の日時になっても理沙は現れなかった。
「鈴木さん、昨日の予約をキャンセルされました」受付の看護師が時輪に伝えた。
「理由は?」
「『仕事が忙しくて』とのことでした」
時輪は軽く眉をひそめた。翌週も理沙は姿を見せなかった。電話をかけても留守番電話につながるだけ。メールを送っても返信はなかった。
三週間が経ち、時輪は佐藤医師とのカンファレンスで理沙の状況を報告した。
「鈴木理沙さんですが、三週間連続で来院がありません。前回来院時は明らかな軽躁状態で、薬の服用も不規則になっていました」
佐藤医師は眼鏡を上げ、カルテに目を通した。
「典型的な経過ですね。軽躁状態で『自分は治った』と思い込み、通院・服薬を中断。その後、反動で抑うつに転じる可能性が高い」医師は淡々と言った。
「訪問看護の指示を出しましょう。本人の同意が得られれば、アウトリーチで状況確認を」
時輪は頷いた。
翌日、彼女は理沙のアパートに電話をかけた。今度は、かすれたような、以前とはまるで違う声が応えた。
「…もしもし」
「鈴木さん?山科です。お元気ですか?」
長い沈黙。そして、か細い声。「…はい」
「クリニックに来られていないので心配しています。お体の調子はいかがですか?」
また沈黙。「…大丈夫です」
「私と訪問看護師で、お宅にお伺いしてもよろしいでしょうか?お薬の調整も必要かもしれません」
電話の向こうで、理沙が深く息を吸う音が聞こえた。
「…わかりました」
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五反田から徒歩15分ほどの場所にある理沙が住むアパート「ハイツ五反田」は、80年代に建てられた古い5階建ての建物だった。外壁の白いタイルには黒ずみが目立ち、鉄製の階段は軽い錆びに覆われていた。
時輪と訪問看護師の中村は、4階の角部屋、401号室の前で立ち止まった。玄関ドアのネームプレートには「鈴木」とだけ書かれていた。
時輪がインターホンを押すと、しばらくして鍵を開ける音がした。
ドアが細く開き、そこから覗く理沙の顔は、以前の彼女とはまるで別人のようだった。潤いを失った肌。生気のない瞳。洗っていないような艶のない髪。
「こんにちは、鈴木さん」時輪は優しく声をかけた。「お邪魔してもいいですか?」
理沙はただ黙って頷き、ドアを開けた。
玄関を入ると、小さなワンルームの部屋全体が視界に入った。壁には彼女のデザイン作品やスケッチが所狭しと貼られ、テーブルの上にはノートパソコンとデザイン関連の書籍が山積みになっていた。部屋の隅のキッチンには、洗っていない食器が積まれ、床にはコンビニの袋が散乱していた。カーテンは閉じられ、薄暗い室内は停滞した空気で満ちていた。
理沙はベッドの端に腰掛け、膝を抱えるようにして座った。
「どうぞ」彼女はかすかな声で言った。
時輪と中村は、小さなダイニングテーブルの椅子に座った。
「最近はいかがですか?」時輪が尋ねた。
理沙は首を振った。「…上手く言えません」
「薬は飲めていますか?」
「…最初の数日は飲んでいました。でも…」理沙は言葉を切った。
空白を埋めるように、中村看護師が優しく言った。「気分の波があるのは自然なことです。薬が切れると、その波が大きくなってしまいます」
理沙はじっと前を見つめたまま、小さく呟いた。「どうせ…私はダメなんです」
「そんなことはありませんよ」時輪は静かに言った。
「いいえ、本当に」理沙の声が少し強くなった。「この前まで、すごく調子が良くて、自分は特別な才能があるって思ってました。大きなプロジェクトを手がけているって…でも、全部嘘なんです」
彼女は壁に貼られた自分のデザイン画を指さした。
「これも、全部妄想です。実際には…何のクライアントもいない。ただの…私の空想」
時輪は理解の表情を浮かべた。「双極性障害では、そういう認識の変化がありますよ。あなたの才能は本物です。ただ、病気のせいで波があるだけ」
理沙は顔を上げ、悲しい瞳で時輪を見た。「本当にそうでしょうか?私は…」
突然、彼女は立ち上がり、部屋の隅にあるトイレのドアに向かって歩き始めた。
「少し休ませてください」
そう言うと、彼女はトイレのドアを閉め、鍵をかけた。
時輪と中村は顔を見合わせた。中村が小声で言った。「このままでは服薬管理も難しそうです。状態も心配…」時輪は頷き、トイレのドアに近づいた。
「理沙さん、少しお話ししませんか?薬のことも相談したいのですが」
長い沈黙の後、理沙の声が聞こえた。「…もう少しここにいたいです」
「わかりました。急ぎませんよ」時輪は穏やかに応えた。「ゆっくりで構いません」
時輪はテーブルに戻り、部屋の様子をより詳しく観察した。壁に貼られたデザイン画の中には、見事な才能を感じさせるものもあれば、混乱した思考を反映したような奇妙なものもあった。テーブルの上のノートには、読みにくい文字で何かが書き連ねられていた。
中村が小さく息を吸った。「山科さん、これ…」
彼女が指さしたのは、ノートの一節だった。
−消えたい。でも怖い。でも生きていても意味がない。彼が言った通り、私は気まぐれすぎる。誰も私を本当には理解できない-
時輪は顔を上げ、静かにトイレのドアを見つめた。「理沙さん、もう少しお話をしてもいいですか?」
返事はなかった。
「今日はこれで帰りますが、また来週来てもいいですか?」時輪は続けた。「あなたの作品、とても素敵です。もっとお話を聞かせてください」
しばらくして、かすかな「はい」という返事が聞こえた。
時輪と中村は薬を置いていくことにした。「毎日一錠ずつ、この曜日別のケースに入れておきました」と中村は説明した。「次回また確認に来ますね」
二人が玄関を出ようとした時、トイレのドアが少し開いた。理沙の顔が見えた。
「山科さん」
時輪は振り向いた。「はい?」
「…ごめんなさい」理沙の声は震えていた。
「何も謝ることはありませんよ」時輪は優しく微笑んだ。「また来週会いましょう」




