第11話 悔いはないのか?
時輪が辿り着いたのは東京医科大学。
消毒液臭漂う廊下をくぐり抜け、ERに駈けつけた。
「佐伯さんは?!」
集中治療室前に座っていた母親である幸子が、時輪に振り向いた。彼女の隣には、おそらく健太の父親だろう。頑固そうな顔立ちのその男性は口を一文字に結び、廊下の天井を見つめていた。
時輪が近づくと、幸子がゆっくりと顔を上げた。彼女の目は泣き腫らし、深い悲しみに侵食された赤い縁取りが痛ましい。
「山科さんですね?…健太、健太が、とてもお世話になりました…」
幸子の言葉は、廊下の空気を凍らせた。幸子の声は途切れ途切れになり、やがて涙に変わった。
その言葉は時輪の心臓を突き刺した。
それは健太が既にいない事を語っていた。
時輪はその場に立ちつくし、言葉が出なかった。先日まで、認知行動療法のシートを前向きに取り組み、回復への道を歩んでいたはずの佐伯健太。彼の目に浮かんでいた光が…消えた。
廊下の奥にある集中治療室のドアが開き、白衣を着た医師が出てきた。疲れた表情のその医師が、時輪たちの方へ歩いてくる。
「佐伯さんのご家族ですね?…列車で跳ね飛ばされた全身の損傷が酷く…」首を横に振り、「人工呼吸器を取り外しました…ご冥福をお祈りします。」
「面会されますか?」
幸子はゆっくりと立ち上がり、夫の腕につかまって医師に続いた。時輪も無言でその後に続こうとした。
「すみません、ご家族以外は…」医師が時輪を止めた。
「この方は息子を支えて下さった方です。」健太の父が初めて口を開いた。「一緒に来てもらって構いません!」
沢山あるベッドの1つに白いシーツに覆われた人の形があり、顔の部分だけが出ていた。
健太の父親は黙って息子の顔を見つめ、その顔には苦虫を噛み潰したような表情が浮かんでいる。怒りか、悲しみか、あるいはその両方か。
幸子の嗚咽が部屋に響く。幸子の泣き声が次第に大きくなり、時輪の頭の中で反響し始めた。その響きは、まるで洞窟の中で何十もの声が重なり合うように、彼女の内側で何かが増幅していった。
健太の顔は深い摺り傷だらけなのに、表情はとても穏やかだった。
時輪は息を飲んだ。
時輪は呼吸をするのを忘れていた。胸が締め付けられる感覚。頭の中で何かが崩れていくような音。
健太…お前、悔いは無いのか?
この世が大したもんだとは言わない。
しかし、やり残したことは無かったのか?…答えろ!!
その時、
健太の眉間が動いた様に見えた。
…分かったわ!
時輪が覚悟を決めお守りを強く握りしめると、幸子の鳴き声が時輪の中に渦を巻き、潮騒のように、そして津波の様に一気に増幅したかと思うと時輪の意識を覆い尽くし、視界が揺らぎ始めた。部屋が回転しているような感覚がした。時輪はベッドに近づこうとしたが、足がもつれ、彼女の体はゆっくりと床に向かって傾いていった。暗闇が彼女を包み込み、彼女は意識を失った。
「山科さん?大丈夫ですか!」誰かの声が遠くから聞こえる…
浮遊感。
時輪の意識は真空の中を漂っているようだった。彼女は自分の体がないことに気づく。ただ意識だけが、無限の空間に浮かんでいる。
このような感覚に彼女は慣れていたが、時間そのものから抜け出したような感覚だった。
「ここは…どこ?」彼女の思考が、闇の中に消えていく。
そして突然、光。視界が開け、音が耳に飛び込んできた。
電車のアナウンス、人々の話し声、靴音が混ざり合う駅のホーム。
時輪は目を瞬かせた。彼女は東京のどこかの駅のホームに立っていた。朝の通勤ラッシュの真っ只中。スーツ姿の男女が行き交う。デジタル時計は午前7時43分を指している。
「何が…」
ほんの数分前まで、病院の集中治療室で健太の遺体の前に立っていたはずなのに、時間を遡っていた。
朝、それも健太が自殺する日の朝に。
ごった返す人々は彼女に気づいていない。誰も彼女を見ることも、触れることもない。まるで彼女はそこに存在していないかのようだった。
時輪はパニックになりそうだったが、合気道で培った精神力で自分を落ち着けた。深呼吸し、彼女の視線はホームを巡り、そして固まった。
十数メートル先、黄色い線の外側に立つ青年がいた。
佐伯健太。
彼は群集から離れ、プラットホームの端に立っていた。うつむき、目を閉じ、体は微かに揺れている。スーツは昨日から着替えていないのか、皺だらけだ。彼の表情には、言葉にならない苦しみが刻まれていた。
遠くでアナウンスが流れた。「まもなく、三番線を貨物列車が通過いたします。危険ですので黄色い線の内側にお下がりください。」
健太の体が緊張し、彼の目がわずかに開いた。彼は黄色い線を越え、さらにホームの端に近づいた。遠くから、列車の轟音が近づいてくる。
その時、時輪の目の前に立っていた一人の男性が、健太の方を見ている。30代半ばのサラリーマン。普段なら周囲に気を配ることもなく、スマートフォンを見ながら電車を待っていただろう。しかし今、その男性は明らかに健太の様子を不審に思い、心配そうに見つめていた。
時輪は瞬時に自分の体を、その男性へと滑り込ませた。
それは一瞬のことだった。突然、時輪は男性の体を通して世界を見ていた。男性の意識は一時的に彼の体の片隅に追いやられ、時輪が主導権を握ったのだ。
健太までの距離はわずか数メートル。
貨物列車のヘッドライトがトンネルから姿を現した。列車は速度を落とさず、轟音を立ててホームに近づいていた。
健太の体が前に傾き始めた。
「健太ぁーー!!」時輪は全速力で走りながら叫び続けた。
健太が振り向いた瞬間、時輪は健太に反転しながら飛びかかった。健太の肩を掴み、自分の体を回転させながら、健太をホームの内側へと投げ飛ばした。
その瞬間、貨物列車がホームを通過した。
耳を突き破るような激しさ轟音と強烈な風圧が二人を襲う。
健太はホームの内側まで投げ飛ばされ、激しく全身を打ち付けた痛みと恐怖で全身を震わせていた。
「バカヤロー!!」時輪は叫んだ。その声には怒りと安堵が混ざり合っていた。「お前!何してるんだ!!」
健太の目が広がり、時輪を(男性の姿)見つめた。
「なぜ…なぜ俺を…?」健太の声は震えていた。
「一度きりの人生だぞ!悔いを残すな!!」時輪は(男性の声)言った。
健太の目から涙があふれ出た。膝をついたまま、顔を両手で覆った。
時輪は(男性の姿)健太に近づき、彼を抱きしめた。
二人の体が触れ合った瞬間、健太の中に抑え込まれていた感情の堤防が決壊した。彼は時輪(男性の姿)の胸に顔を埋め、子供のように泣き始めた。
時輪も(男性の姿)また、涙を流した。安堵。そして彼が抱え込んでいた深い悲しみ、やり残した想いを感じ、助けて良かったのだと悟った。
二人は言葉なく抱き合い、列車の轟音が遠ざかっていく中、ただ静かに泣いた。
時輪の意識が再び揺らぎ始め、徐々に意識が遠ざかっていくのを感じた。再び浮遊感。光が彼女を包み込み、駅のホームの光景は遠ざかっていった。視界が白く、そして黒く変わっていった。
時輪に取り残された男性は酷く混乱し、自分が何をしたのか、なぜ健太を抱きしめているのか理解できなかった。
彼は何となく…「大丈夫か?」と優しく健太に尋ねてみた。
健太はゆっくりと立ち上がり、震える手で涙を拭った。
「はい…ありがとうございました!あなたが…あなたが私の命を…」
男性は、驚きを隠しながら照れたような表情を浮かべ、首を振った。
「いや、俺は…何となく危ないと思って…人生は一度きりだ!悔いを残さない様に生きろ!」時輪の言葉を記憶していたのだろうか。
健太は男性の言葉に、再び深く頷いた。健太の顔には、失われていた何かが戻ってきていた。生きる意志を示した。
二人の周りには既に駅員や警察官が集まり始めていた。驚きと称賛の声。質問が飛び交い、証言が求められる。混乱の中、ざわめきが広がっていた。
「あの人、飛び込もうとしている人を助けたんだぜ!」「すごい反射神経だったよ!」「武道家?プロ?」「警察は呼んだ?」「駅員さん、彼を保護して!」
健太は駅員に保護され、男性は駆けつけた大勢の警官から称えられ、行き交う人から握手を求められた。そして、一部始終を見た乗客からの質問に答えた。
「合気道の技?…いや、全くやったこと無くて、自分がどうやったかも覚えていません。…強いて言うなら…無意識の行動です」




