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第10話 自裁

 時輪は白いメモ帳を取り出し、健太に手渡した。

「これは思考記録シートです。否定的な考えが浮かんだとき、それを書き留め、その考えによってどんな感情が生まれたか、そして別の考え方はできないかを考えてみてください。」


 健太はメモ帳をじっと見つめる。それは単なる紙切れに見えたが、彼の体の奥で何かが小さく動いた気がした。

「山科さん」彼は小さな声で言う。

「正直に言うと、自分がこんな状態になるなんて、信じられないんです。私は...いつも成功してきたはずなのに…」

 時輪は微笑む。

「佐伯さん、人間は機械ではありません。感情を持ち、限界もある生き物です。それを認めることは、弱さではなく、強さの証です」

 健太の目に、薄い涙の膜が張った。

「ありがとうございます。」彼は静かに言った。

 窓の外では、わずかに雨が止み、曇り空の隙間から細い光が差し込んでいた。


 週を追うごとに、健太は少しずつ変化していった。

 思考記録シートは次第に彼の日常の一部となり、否定的な自動思考に気づき、それに挑戦する習慣が身についていった。

「『失敗したら価値がない』という考えが浮かんだとき、代わりに『失敗は学びの機会だ』と考えるようにしています」彼はある日の面談で報告した。

 時輪は嬉しそうに頷く。

「素晴らしい進歩です。実際にその新しい考え方を試してみて、どう感じましたか?」

「正直、最初は違和感がありました」健太は少し照れたように微笑む。「でも、繰り返すうちに、少しずつ本当にそう思えるようになってきています」


 次は段階的曝露療法も始めた。まずは健太の以前の職場近くまで一緒に行き、その場所に関連する不安と向き合うことから。

「胸が締め付けられる感じがします」オフィスビルを遠くから眺めながら、健太は言った。

「その感覚に注目してください」時輪は静かに促す。「逃げずに、その感覚が変化していくのを観察してみましょう。」


 東京の喧騒の中で、二人は並んで立ち、ただそこにいる。

 最初は激しかった健太の動悸も、時間と共に徐々に落ち着いていった。

「不思議ですね」健太は静かに言った。

「あれほど怖かった場所なのに、今は少し違って見えます。」

 時輪は微笑んだ。「恐怖と向き合うことで、それが持つ力は少しずつ弱まっていくんです。」


 再就職の準備も進めていた。履歴書の作成、面接の練習、そして何より、自分の価値は仕事の成功だけで決まるわけではないという考え方の構築。

「以前の自分なら、『一流企業でなければダメだ』と思っていたでしょう」健太は言う。

「でも今は、自分に合った環境を見つけることの方が大切だと思えるようになりました。」

 時輪はそんな健太の変化を、静かな喜びと共に見守っていた。


 そして、治療を始めて3ヶ月後、健太は中堅の貿易会社への面接に臨んだ。

「どうでしたか?」面接後の面談で時輪が尋ねると、健太は少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「…受かりました!来月から働き始めます!」

「おめでとうございます!」時輪は心から言った。

「山科さんのおかげです!」健太の声には感謝が込められていた。

「正直、最初は疑っていました。でも、認知行動療法は本当に効果があったんです!」

 時輪は首を振る。「いいえ、これはすべて佐伯さん自身の努力の成果ですから、自分自身に自信を持って下さい。私はただ道具を提供しただけ」


 窓の外では、夏の陽光が街を照らしていた。回復の兆しが見えた瞬間だった。


 健太が新しい職場で働き始めて1ヶ月後、時輪は彼の様子の変化に気づいていた。

 面談では明るく振る舞っていたが、その目の奥に何か暗いものが潜んでいるような印象を受けたのだ。


「新しい職場はどうですか?」時輪は慎重に尋ねた。

「うまくいってます。」健太は少し早口で答えた。

「仕事は以前ほど忙しくないし、上司も理解があります。」…しかし、彼の言葉と表情の間には微妙な不協和音があった。時輪はそれを見逃さなかった。

「思考記録は続けていますか?」

「ええ、まあ...」健太は視線を逸らした。

「最近は少し忙しくて…」その言葉に、時輪は内心で小さな警告のベルを聞いた。


 翌週、健太は予約をキャンセルした。「仕事の都合で」という理由だった。

 その次の週も同じ理由でキャンセル…

 時輪は彼に電話をかけたが、留守番電話につながるばかりだった。

 通院患者でよく在る事…と流せず、不安が増した。


 そして、、

 健太が最後に来院してから3週間後の火曜日の夜、時輪のスマートフォンが鳴った。

 表示された番号は見覚えのないものだ。


「はい、山科です。」

「もしもし、山科さん?...」

 聞き覚えのない女性の声が震えていた。

「私、佐伯健太の母親です...」

 胸に冷たいものが広がった。


「む、息子が...じ、自殺して…」言葉が途切れ、啜り泣く声だけが聞こえた。

 

 搬送された病院の名前を聞くと、時輪は直ぐ様立ち上がり外に向かって駆け出した!

 夜の街は、闇の中で街灯が点々と光っていた。


「健太!あいつ!バ、バカヤロー!馬鹿!馬鹿ー!!」

 時輪は古い合気道の護身用のお守りを握りしめた。


 生きろ!絶対に、絶対に生きてろよー!!

 

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