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第9話 診断と治療

 雨が窓を叩いていた。

 五反田クリニックの診察室で、山科時輪は佐伯健太のカルテを閉じた。時計が午後6時15分を指している。外は既に暗く、街灯の光が雨に溶けて窓ガラスを伝い落ちていた。

 時輪は軽くため息をついた。そして、ノックの音を待たずに開けられたドアの向こうに現れた佐藤昌彦医師の姿に視線を上げた。


「お疲れさまです、山科さん。佐伯さんの件、どうでした?」

 佐藤医師の声は穏やかだが、どこか機械的だ。彼は50代半ば、白衣のポケットからは常に三色ボールペンが覗いている。長年の臨床経験から来る確かな診断力を持つが、患者との対話より薬物療法を重視するタイプだ。


「はい」時輪は椅子から立ち上がり、佐伯健太のファイルを医師に差し出した。

「佐伯さんは明らかな適応障害の症状を呈しています。パニック発作、不眠、食欲不振、回避行動のパターンが顕著です。」

 佐藤医師はファイルに目を通しながら頷いた。「東大卒で一流企業か…典型的な燃え尽きケースですね。」


「ただ」時輪は続ける。「彼の場合、単なる過労だけではないと思います。完璧主義的な思考パターンと、母親からの期待に応えなければならないという強迫観念が根底にあるように感じました。」

 佐藤医師は椅子に座りながら、投げやりな視線を診察室の天井に向けた。

「なるほど。じゃあ通常の処方でいきましょう。SSRI系とベンゾジアゼピン系の併用で、まずは症状の安定を図りましょう。」

 彼は処方箋を書き始めた。その手の動きは機械的で、まるでベルトコンベアの上で同じ部品を組み立てるような動作だ。


「先生!」時輪は声を低くした。「佐伯さんの場合、薬物療法だけでなく、認知行動療法も並行して行うべきではないでしょうか。彼のケースでは、思考パターンの変容が重要だと思います。」

 佐藤医師の手が一瞬止まる。彼は時輪を見上げ、眉をひそめた。

「山科さん、あなたが経験豊富なのは知っています。でも、診断と治療方針は医師の仕事です。」

 冷たい言葉だ。しかし時輪は引かない。


「もちろんです!ただ、佐伯さんの場合、薬だけでは根本的な問題は解決しないと思います。彼は薬を飲みながらも、再び同じパターンに戻る可能性が高いです。」


 彼女の声には確信があった。なぜなら、佐伯健太の目に映った虚無を、彼女は見逃さなかったからだ。それは薬では埋められない深い穴だった。

 佐藤医師は再び処方箋に目を落とし、ペンを走らせながら言った。

「わかりました。まずは薬で安定させた上で、認知行動療法を検討しましょう。あなたにその担当を任せます。」


 院長が一見譲歩したように聞こえたが、時輪にはやり過ごす様に聞こえた。

「ありがとうございます」時輪は形式的に頭を下げた。


 佐藤医師が部屋を出た後、時輪は窓際に立ち、雨に煙る街を見下ろした。

 彼女は既に決めていた。たとえ佐藤医師の「承認」が形だけのものであっても、佐伯健太には必要な治療を提供するつもりだ。


 次の来院日、佐伯健太は少し落ち着いた様子で現れた。

「薬を飲み始めてから、少し眠れるようになりました。」彼は時輪に告げる。

「でも…会社のことを考えると、まだ胸が締め付けられるような感じがします。」

 時輪は頷く。


「薬は症状を和らげる助けになりますが、根本的な原因に向き合うには別のアプローチも必要ですよ。」

 彼女は柔らかい笑顔で続けた。「佐伯さん、認知行動療法というものをご存知ですか?」


 カウンセリングルームの柔らかな光の中で、時輪は健太に認知行動療法の基本を説明した。思考パターンが感情や行動にどう影響するか、そして否定的な自動思考をどう認識し、変えていくかについて。


「たとえば、佐伯さんが『失敗は許されない』と思う時、それはどんな感情を引き起こしますか?」

 健太は少し考え、答えた。「不安です。常に完璧でなければならないという圧力を感じます。」

「そうですね。」時輪は静かに頷く。「では、その思考は事実でしょうか?人間は失敗してはいけないものなのでしょうか?」

 健太は目を伏せた。「論理的には違うとわかっています。でも、感情的には...」

「そこなんです。」時輪は優しく言った。

「私たちはまず、あなたの中のその『論理』と『感情』の断絶を理解し、架け橋を作っていきましょう!」


 彼女はポケットの中で、古い合気道の護身用のお守りを無意識に撫でていた。

「境界を越える」ということを、彼女はいつも恐れていないのだ。

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