第五話「名前のでない夜」
深夜の病院は、音が少ない。
遠くで機械が一定のリズムを刻み、
廊下の照明が白く床を照らしている。
「……この子です」
医師はカルテを閉じながら言った。
「三浦直哉くん。十七歳。
今夜、突然眠って、そのまま意識が戻りません」
喰崎真希は、ベッドに横たわる少年を見た。
顔色は悪くない。
呼吸も、脈も安定している。
それでも――
普通の眠りじゃないと、はっきり分かる。
「夢の内容は?」
真希が尋ねると、医師は少しだけ言いにくそうに答えた。
「学校のような場所を、何度も見るそうです。
教室があって、黒板があって……」
真希の胸が、わずかにざわつく。
「……分かりました」
それ以上、説明はいらなかった。
真希は椅子に腰を下ろし、
静かに目を閉じる。
*
足元が、沈む。
感覚は明確だった。
病室から、そのまま引き込まれている。
気づくと、真希は教室に立っていた。
机が並び、黒板があり、
窓の外は夜とも昼ともつかない色。
黒板の前に、少年が一人立っている。
振り返った少年は、少しだけ身構えた。
「……誰ですか」
警戒した声。
「喰崎真希です。
あなたの話を、聞きに来ました」
一拍の沈黙。
「……三浦です。
三浦直哉」
「直哉くん。
ここは夢です」
真希がそう告げると、直哉は小さく息を吐いた。
「やっぱり」
落ち着きすぎている声だった。
「現実なら、
こんなに静かなはずないです」
真希は、教室を見回す。
「この場所に、心当たりは?」
「あります」
直哉は即答した。
「孤児院です。
正確には……そこで勉強してた部屋」
真希の指先が、わずかに強張る。
「先生がいました」
直哉は、黒板を見つめたまま続ける。
「怒鳴らないし、
甘やかしもしない人で」
「何かあると、
必ずこう言うんです」
黒板に、白い文字が浮かび上がる。
――自分で考えなさい
丁寧な字。
だが、そこに名前はない。
「その先生に、
助けてって言えなかったことが……
僕のトラウマです」
直哉は、はっきりと言った。
真希は、一歩だけ前に出る。
「どうして?」
「その人、
ずっと“助ける側”だったからです」
直哉の声が、少し低くなる。
「僕が弱音を吐いたら、
先生の手を止める気がして」
「他にも、
守らなきゃいけない子がいるのに」
教室の空気が、重く沈む。
「孤児院を出てから、
うまくいかなくなりました」
直哉は、視線を落とした。
「学校も、仕事も続かなくて」
「連絡しようとしたことも、あります」
拳を、ぎゅっと握る。
「でも……今さら
『助けてください』って言うのは、
ずるい気がして」
黒板に、細かなひびが入る
真希は、すぐには答えなかった。
正しさを言う場所じゃない。
この夜は、そういう夜じゃない。
しばらくして、ゆっくりと口を開く。
「……私も、同じでした」
直哉が、顔を上げる。
「助けてくれた人がいました」
「いつも正しくて、優しくて、
ずっと“助ける側”に立っていた人です」
真希も、黒板を見る。
「その人に、
私は何も言えませんでした」
「頼りたかった。
苦しいって、言いたかった」
喉が、わずかに詰まる。
「でも……言えなかった」
直哉は、黙って聞いている。
「その夜、
私はその人の夢に入りました」
直哉の目が、わずかに見開かれた。
「助けようとしました。
一緒に帰ろうって、手を伸ばしました」
真希は、静かに首を振る。
「でも……拒まれました」
短い沈黙。
「今でも、その夜を引きずっています」
真希は、直哉をまっすぐ見る。
「だから、分かるんです」
「助けを求めなかったことが、
あなたの弱さじゃないってこと」
一歩だけ近づく。
触れない。
手も伸ばさない。
「……直哉くん」
「一緒に帰りましょう」
直哉は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「……はい」
教室が、静かに揺れ始める。
黒板が崩れ、
机が溶けるように消えていく。
真希が目を開けると、病室だった。
直哉は、まだ眠っている。
だが、表情はわずかに緩んでいた。
「……夢は、見ましたか」
真希の問いに、直哉は小さくうなずく。
「変な夢でした」
それ以上は、語らなかった。
病院を出た頃、
空はまだ暗かった。
街灯の下で、真希は立ち止まる。
あの教室。
あの言葉。
名前の出ない先生。
分かっている。
これは前触れだ。
この言葉が、
いつか届かない夜が来る。
それでも――
言わずにはいられない夜が、
確実に近づいていた。
夜は、静かに続いていた。




