第四話弐「誰かに頼る夜」
水嶋優斗は、まだ目を覚まさなかった。
心電図の音が、一定の間隔で病室に響いている。
眠っている顔は穏やかで、第四話の夜から何も変わらない。
喰崎真希は、ベッド脇の椅子に座ったまま、彼を見ていた。
――どうせ目が覚めても、あの生活に戻るだけ。
水嶋の言葉が、胸の奥で静かに残っている。
否定できなかった。
それは投げやりでも、逃げでもなく、
現実を知った人の結論だったからだ。
真希は、小さく息を吐いた。
「……一人で、どうにかしなくてもいい」
それは水嶋に向けた言葉じゃない。
自分自身に向けた、まだ輪郭のない考えだった。
連絡は、ダメ元だった。
水嶋のスマートフォンに残っていた履歴。
最後に通話した相手。
呼び出し音が鳴るたび、
「出なくていい」と思う自分がいた。
「……もしもし?」
少し掠れた声。
「突然すみません。
水嶋優斗さんのことで、お話があって」
一瞬の沈黙。
「……今さら、何ですか」
責める声ではない。
距離を取った人の、静かな声音。
「水嶋さんが、眠ったままなんです」
それ以上は、言わなかった。
しばらくして、電話の向こうで息を吐く音がした。
「……行きます」
短い返事だった。
病室で、友人は水嶋の顔を見て、視線を逸らした。
「……こんなことになるなんて」
「責めるために呼んだわけじゃありません」
真希は、静かに言う。
「お願いがあります」
友人は、戸惑いを隠さず眉をひそめた。
「水嶋さんのそばで……
一緒に眠ってほしいんです」
「……は?」
「理由は、今は説明できません」
真希は、正直に言った。
「無理だと思ったら、断ってください」
友人は、水嶋の寝顔を見つめる。
長い沈黙。
「……逃げてました」
ぽつりと、そう言った。
「返せないって、ちゃんと言えなかった」
「困った顔、したまま……距離を取った」
拳を、強く握る。
「それでも……」
ベッドの横に椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
「何もしないよりは、
まだマシだと思う」
友人は、横になった。
二人が眠りに落ちた、その瞬間。
真希は、違和感を覚えた。
通路は、これまでと同じだった。
無機質な壁。
遠くに見える、出口の光。
けれど――
足音が、二つある。
真希は、思わず息を呑んだ。
水嶋だけのはずだった夜に、
もう一人、立っている。
連れてきた。
悪夢の中へ。
そんなことが、できるなんて。
これまで真希が入ってきたのは、
いつも“一人分の悪夢”だった。
救うか、届かないか。
その二択しかない世界。
でも今は違う。
水嶋の悪夢が、
誰かを拒まなかった。
真希は、無意識に一歩、下がった。
ここは、自分の場所じゃない。
「……なに、ここ」
友人が、息を詰めて周囲を見回す。
水嶋は、はっとしたように顔を上げた。
「……来た」
驚きと戸惑いが入り混じった声。
「夢です」
真希は、それだけを伝えた。
説明しない。
導かない。
この夜は、二人のものだから。
友人は、水嶋を見る。
そして、目を伏せた。
「……ごめん」
短い言葉。
「返せない。
今も、正直余裕はない」
「でも……困らせたまま、
黙って距離を取るのは、違った」
水嶋は、何も言えなかった。
怒りも、安堵も、
同時に胸に込み上げる。
「助けてって言われた時……」
友人の声が、震える。
「どう返せばいいか、分からなかっただけなんだ」
「迷惑だなんて、
一度も思ってない」
出口の光が、少しだけ近づいた。
水嶋は、それを見て、初めて気づく。
背中に、人の気配がある。
一人で立っていない。
「……一人で、
どうにかしなくてもよかったんだな」
それは言葉というより、
体に落ちてくる感覚だった。
出口は、まだ遠い。
問題も、何も解決していない。
それでも。
水嶋は、小さく一歩、前に出た。
病室で、心電図の波形が、わずかに変わる。
「……反応、あります」
看護師の声。
真希は、静かに息を吐いた。
これは奇跡じゃない。
完全な解決でもない。
ただ――
一人でやらなければならないと思っていた。
今まで誰かに頼ったことはなかった。
誰かに頼ることもできる。
それだけで、十分だった。
夜は、まだ続く。
でももう、一人ではない。




