第四話壱「出口が見える夜」
異変は、ひどく静かだった。
「……水嶋さんだけです」
医師は、そう言ってカルテを閉じた。
「眠っています。呼吸も安定していますし、刺激にも反応はあります。
ですが……意識が戻りません」
喰崎真希は、ベッドに横たわる青年を見下ろした。
水嶋優斗。
苦しそうな顔ではない。
それなのに――何かを決め終えた人の表情だった。
「……分かりました」
それ以上、聞くことはなかった。
真希は、静かに目を閉じる。
*
足元が、沈んだ。
引き込まれる感覚は、もう慣れている。
それでも今回は、少しだけ重かった。
*
長い通路だった。
無機質な壁と床。
足音は返ってくるのに、現実の手応えがない。
その先に、光がある。
出口だと、すぐに分かる。
あまりにも分かりやすい、帰り道。
通路の途中に、水嶋優斗が立っていた。
こちらを見る目には、警戒と戸惑いが混じっている。
「……誰ですか」
「あなたの話を、聞きに来ました」
一拍の沈黙。
「……夢、ですよね。ここ」
「そうです」
短く答えると、水嶋は小さく息を吐いた。
「やっぱり」
助けを求める声じゃない。
拒むでもない。
ただ、測っている。
「……帰りましょう」
真希が言うと、水嶋は出口を見た。
「出口、見えてますよね」
「ええ」
「でも――」
水嶋は、しばらく光を見つめてから、言った。
「どうせ目が覚めても、
あの生活に戻るだけですよね」
真希の喉が、わずかに詰まる。
「金の問題は、解決してない。
仕事も、余裕があるわけじゃない」
淡々とした声だった。
だからこそ、重い。
「助けてって言って、
困らせた相手とも、気まずいままです」
水嶋は、出口から視線を外す。
「ここにいれば、
少なくとも……何も期待しなくて済む」
真希は、すぐに言葉を返せなかった。
「前に、一度だけ……助けてって言いました」
床に目を落としたまま、水嶋は続ける。
「友人に、金を貸してました。
会社が倒産して……どうしようもないって」
「返せる時でいいって言いました。
本気で」
それでも、返ってこなかった。
「生活が苦しくなって、
このままだと周りに迷惑をかけると思って」
だから――
「その友人に、言いました」
「少しでいいから、返してほしいって。
無理なのは分かってるけど……助けてほしいって」
短い沈黙。
「怒られませんでした」
水嶋は、かすかに笑う。
「ただ……困った顔をされて」
「どう返せばいいか分からないって」
それで、距離ができた。
誰も、悪くなかった。
だからこそ、残った。
「分かったんです」
水嶋は、静かに言った。
「助けてって言うと、
人を困らせるんだなって」
出口の光が、わずかに揺れる。
「だったら……戻らない方が、楽です」
「ここにいれば、
誰にも困った顔をさせなくて済む」
それは逃げではなかった。
現実を知った末の、拒絶だった。
真希は、一歩近づく。
出口に向かって手を伸ばす。
けれど、触れられない距離で止まる。
「……水嶋さん」
名前を呼ぶ。
「一人じゃない」
精一杯、それだけを言った。
水嶋は、すぐには答えなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、出口を見ないまま、そこに立っている。
夢は終わらない。
水嶋は目を覚まさない。
真希は、出口と彼の間に立ったまま、
その場を離れなかった。
救えていない。
出口の前で、
夜は、まだ続いていた。




