第二話「塞いでも、終わらない夜」
相馬恒一は、働くことをやめなかった。
誰よりも早く出社し、
誰よりも遅く帰る。
部下の資料に不備があれば自分で直し、
ミスがあれば名前を消して引き取る。
「自分がやった方が早いから」
それが、彼の口癖だった。
残業は増え、
休日出勤は当たり前になり、
評価表の「責任感」の欄だけが、やけに分厚くなった。
――結果は、出なかった。
プロジェクトは遅れ、
上層部は静かに言った。
「責任を取る姿勢は評価する」
「ただし、結果は失敗だ」
異動。
降格。
守った部下からは、
気まずそうな謝罪が一度あったきりだった。
相馬は何も言わなかった。
言えなかった。
それでも働いた。
同じやり方で、同じ速度で。
眠る時間だけが、少しずつ削れていった。
最初の夜、相馬は夢を見た。
オフィスの床に、
小さな穴が一つ開いていた。
気づかないふりをした。
次の夜、
穴は増えていた。
書類を落とせば、少しだけ塞がる。
だから、やめなかった。
三日目の朝、
相馬は、会社のデスクで目を覚まさなかった。
「……一日目です」
病室で、医師がそう言った。
相馬は眠ったまま、眉ひとつ動かない。
呼吸は安定している。
ただ、起きない。
「過労でしょう」
「脳に異常はありません」
喰崎真希は、ベッド脇の椅子に腰を下ろしていた。
白い髪を耳にかけ、静かに目を閉じる。
次に目を開けた時、
真希はオフィスのフロアに立っていた。
コピー機。
観葉植物。
整然と並ぶ机。
現実と、ほとんど同じ。
違うのは、床だった。
小さな黒い穴が、一つだけ開いている。
――まだ浅い。
「……誰ですか」
背後から、疲れた声がした。
振り返ると、相馬が立っていた。
スーツ姿のまま、ネクタイだけが少し緩んでいる。
「残業ですか」
冗談めいた口調。
でも、目は笑っていない。
「ここ、夢ですよ」
真希が言うと、
相馬は少し考えてから、うなずいた。
「でしょうね。最近、現実と区別がつかなくて」
相馬は床の穴に視線を落とした。
「昨日はなかったんです。
でも……放っておくわけにもいかなくて」
そう言って、
カバンから書類を取り出す。
始末書。
報告書。
どれも、丁寧に書かれている。
「癖みたいなもので。
問題があるなら、埋めないと落ち着かない」
「誰のミスですか」
真希が聞く。
「部下です」
一瞬、間があった。
「……正確には、私が判断しました」
その言葉で、真希は理解した。
この人は、
責任を取ることをやめられないのではない。
責任を取らなければ、前に進めなくなっている。
「全部、あなたの責任じゃない」
相馬の手が、止まった。
書類を掴んだまま、
しばらく、動かなかった。
聞き慣れない言葉だった。
否定でも、評価でもない。
責められることも、
任されることもあった。
でも――
責任を分けてもらったことは、なかった。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「……」
何か言おうとして、
言葉が出てこない。
代わりに、
肩から、力が抜けた。
自分が、
ずっと歯を食いしばっていたことに、
その時になって、ようやく気づいた。
「迎えに来ました」
真希は言う。
「今日は、帰れます」
相馬はしばらく黙り、
床の穴を見下ろした。
「……それは、まだ困ります」
「困る?」
「ここを放って戻ったら、
同じことを繰り返す気がして」
声は、穏やかだった。
「だから……今日は、ここまででいいです」
その瞬間、
床が大きく軋んだ。
真希の足元が、沈む。
「……今日は、ここまでです」
相馬の声が、遠くなる。
「少し、楽になりました」
それだけを残して、
視界が白く弾けた。
目を開けると、病室だった。
「……理解した、のに」
真希は、小さく呟く。
理解したからこそ、
踏み込まなかった。
――初日は、追い出される。
相馬は、眠ったままだった。
点滴の量も、呼吸の間隔も、
数値は安定している。
医師は言った。
「今夜が、山ですね」
夜中、
病室のカーテン越しに、携帯電話が鳴った。
相馬のものだった。
〈至急〉
〈確認お願いします〉
短い通知が、何件も並んでいる。
真希は、それを見て、そっと視線を逸らした。
――止めるだけじゃ、足りない人もいる。
その考えが浮かび、
すぐに打ち消す。
それを認めてしまえば、
自分が踏み込まなかった理由を
直視することになるから。
目を閉じると、
オフィスの床が浮かんだ。
塞がれない穴。
書類を落とす音。
真希は、ほとんど眠れなかった。
それでも、夜は来る。
彼女は、もう一度目を閉じた。
二日目の夜。
同じオフィス。
同じ穴。
相馬は床に膝をつき、
書類を穴に落としていた。
〈納期遅延〉
〈判断ミス〉
〈責任者:相馬〉
文字が浮かぶ。
「全部、あなたの責任じゃない」
相馬の手が、止まる。
「……分かっています」
しばらくして、そう言った。
「でも……今は、止まれました」
書類を落とす手を止める。
「今日は、ここまででいい気がします」
穴は、残ったままだ。
三日目の朝。
相馬は、目を覚ました。
「……眠らずに、済みました」
それだけ言って、天井を見る。
救えた。
止めることはできた。
病室を出た真希は、立ち止まる。
正解だったはずなのに、
胸の奥に、引っかかりが残っている。
――次は、連れ戻せないかもしれない。
そんな考えが、ふと浮かんだ。
それでも喰崎真希は、また眠る。
終わらせることを選ぶ夜が、
どこかで待っていることを、
まだ知らないまま。




