第一話「まだ、間に合う夜」
他人の悪夢に入り込み、心の傷を疑似体験することで人を救う少女――喰崎真希。
現実ではおっとりとした性格の彼女だが、夢の中では恐怖に慣れた態度で、誰かの夜に踏み込んでいく。
悪夢に侵された人間は、三日以内にトラウマを越えなければ二度と目を覚まさない。
否定され続けた努力、言えなかった感情、逃げ場としての悪夢。
すべてが間に合うわけではないと知りながら、それでも真希は眠りにつく。
これは、目を覚まさない夜の中で「帰りたい」を探す、ホラーファンタジー。
目を覚まさない人間は、眠っているように見える。
胸は上下し、呼吸は規則正しい。脈もある。
だからこそ分かりにくい。
その眠りが、休息なのか。
それとも、沈みきってしまった後なのか。
喰崎真希は、病室の椅子に腰を下ろしたまま、ベッドの上の少女を見ていた。
心電図の電子音が、一定の間隔で鳴っている。
正確で、冷たくて、嘘をつかない音。
「三日目ですね」
背後から、医師の声がした。
淡々とした口調だった。そこに希望も絶望も含まれていない。
真希は小さくうなずく。
それ以上の返事は、必要なかった。
三枝由衣。大学生。
過労と極度のストレス。原因不明の昏睡。
カルテに並んだ文字は整然としている。
けれど、当の本人は静かすぎる眠りの底にいた。
顔色は悪くない。髪も整えられている。
ただ、まぶたの下にだけ、薄い影が落ちている。
――夢を見すぎた人の、目だ。
「このまま……目を覚まさない可能性も」
医師の言葉は、途中で切れた。
続きを言わなくても、意味は伝わっている。
「……少し、眠ります」
真希はそう言って、立ち上がらなかった。
引き止められることもない。
白い髪を耳にかけ、目を閉じる。
世界が、音もなく裏返った。
夜の教室だった。
蛍光灯は点いているのに、どこか薄暗い。
窓の外は完全な闇で、校舎の輪郭すら見えない。
机と椅子は整然と並び、
黒板だけが、異様に広く感じられた。
真希は足元を確かめ、静かに息を吸う。
ここがどこでも、やることは同じだ。
「……やっぱり」
窓際の席に座る少女が、黒板を見つめたまま言った。
三枝由衣。
現実と同じ顔。けれど、感情の起伏が削ぎ落とされたような表情。
「ここ、夢ですよね」
「うん」
真希は短く答える。
出口はない。いつもの構図だった。
「そっか」
由衣は立ち上がり、黒板の前に立つ。
チョークを取る手に、ほんの少し力が入った。
書き終えた瞬間、
黒板消しが、最初からそうなる決まりだったみたいに動いた。
乾いた音。
数字は、跡形もなく消える。
由衣は驚かない。
〈二位〉
〈努力した〉
〈頑張った〉
どれも、書き終える前に消された。
白い粉が床に落ちる。
その音に混じって、声がした。
――一番じゃないの?
低く、感情のない声。
――それで、どうするつもり?
由衣は答えない。
答える必要がないことを、知っている。
――頑張った、は理由にならないでしょう。
――結果が出なかった努力に、意味はないの。
声は一つではなかった。
重なり合い、逃げ場を塞ぐ。
――次は一位を取りなさい。
――取れないなら、時間の無駄よ。
由衣の手から、チョークが落ちた。
「……一番じゃないから」
独り言のように、由衣は言う。
「うちでは、意味がないんです」
真希は黒板を見る。
白い粉の下に、かすかな跡が残っていた。
完全には、消えていない。
「誰が消してるの?」
「分かりません」
由衣は肩をすくめる。
「でも、ずっとこうでした。
一位じゃなかったら、見てもらえない。
理由も、過程も」
教室の後ろの壁に、成績表が貼られている。
一位の欄だけが、不自然なほど明るい。
二位以下の名前は、滲んで読めなかった。
「ここ、私の名前……あったはずなんですけど」
由衣は困ったように笑う。
「だから、書かない方が楽なんです。
どうせ、消されるなら。
最初から、なかったことにした方が」
蛍光灯が、ちらついた。
床に細い亀裂が走る。
時計の秒針だけが、異様に速く動き始める。
――時間が、動いている。
「ねえ」
真希は、由衣の隣に立ったまま言った。
「帰ろう」
由衣は、ゆっくりと振り向いた。
「起きたら、また同じですよ」
「うん」
「夢の方が、楽です」
それは拒絶でも、懇願でもなかった。
ただの事実だった。
真希は一歩も近づかず、手だけを差し出す。
「それでも」
天井が、音を立てて崩れ始める。
由衣はその手を見つめ、
深く息を吸って――自分から、掴んだ。
心電図の音が、確かに鳴っている。
由衣は、目を覚ました。
泣かなかった。
笑いもしなかった。
ただ、深く息をする。
「……夢の方が、楽でした」
小さな声で、そう言う。
真希は一瞬だけ言葉を探し、答えた。
「うん。でも――帰ってきた」
病室を出て、廊下に立つ。
白い壁。白い床。
現実は相変わらず、味気ない。
「……次も、間に合うとは限らない」
それでも喰崎真希は、また眠る。
消される前に。
沈みきる前に。




