表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

第一話「まだ、間に合う夜」

他人の悪夢に入り込み、心の傷を疑似体験することで人を救う少女――喰崎真希。

現実ではおっとりとした性格の彼女だが、夢の中では恐怖に慣れた態度で、誰かの夜に踏み込んでいく。

悪夢に侵された人間は、三日以内にトラウマを越えなければ二度と目を覚まさない。

否定され続けた努力、言えなかった感情、逃げ場としての悪夢。

すべてが間に合うわけではないと知りながら、それでも真希は眠りにつく。

これは、目を覚まさない夜の中で「帰りたい」を探す、ホラーファンタジー。

 目を覚まさない人間は、眠っているように見える。

 胸は上下し、呼吸は規則正しい。脈もある。


 だからこそ分かりにくい。

 その眠りが、休息なのか。

 それとも、沈みきってしまった後なのか。


 喰崎真希は、病室の椅子に腰を下ろしたまま、ベッドの上の少女を見ていた。


 心電図の電子音が、一定の間隔で鳴っている。

 正確で、冷たくて、嘘をつかない音。


「三日目ですね」


 背後から、医師の声がした。

 淡々とした口調だった。そこに希望も絶望も含まれていない。


 真希は小さくうなずく。

 それ以上の返事は、必要なかった。


 三枝由衣。大学生。

 過労と極度のストレス。原因不明の昏睡。


 カルテに並んだ文字は整然としている。

 けれど、当の本人は静かすぎる眠りの底にいた。


 顔色は悪くない。髪も整えられている。

 ただ、まぶたの下にだけ、薄い影が落ちている。


 ――夢を見すぎた人の、目だ。


「このまま……目を覚まさない可能性も」


 医師の言葉は、途中で切れた。

 続きを言わなくても、意味は伝わっている。


「……少し、眠ります」


 真希はそう言って、立ち上がらなかった。

 引き止められることもない。


 白い髪を耳にかけ、目を閉じる。


 世界が、音もなく裏返った。


 夜の教室だった。


 蛍光灯は点いているのに、どこか薄暗い。

 窓の外は完全な闇で、校舎の輪郭すら見えない。


 机と椅子は整然と並び、

 黒板だけが、異様に広く感じられた。


 真希は足元を確かめ、静かに息を吸う。

 ここがどこでも、やることは同じだ。


「……やっぱり」


 窓際の席に座る少女が、黒板を見つめたまま言った。


 三枝由衣。

 現実と同じ顔。けれど、感情の起伏が削ぎ落とされたような表情。


「ここ、夢ですよね」


「うん」


 真希は短く答える。

 出口はない。いつもの構図だった。


「そっか」


 由衣は立ち上がり、黒板の前に立つ。

 チョークを取る手に、ほんの少し力が入った。

 書き終えた瞬間、

 黒板消しが、最初からそうなる決まりだったみたいに動いた。


 乾いた音。

 数字は、跡形もなく消える。


 由衣は驚かない。


 〈二位〉

 〈努力した〉

 〈頑張った〉


 どれも、書き終える前に消された。


 白い粉が床に落ちる。

 その音に混じって、声がした。


 ――一番じゃないの?


 低く、感情のない声。


 ――それで、どうするつもり?


 由衣は答えない。

 答える必要がないことを、知っている。


 ――頑張った、は理由にならないでしょう。

 ――結果が出なかった努力に、意味はないの。


 声は一つではなかった。

 重なり合い、逃げ場を塞ぐ。


 ――次は一位を取りなさい。

 ――取れないなら、時間の無駄よ。


 由衣の手から、チョークが落ちた。


「……一番じゃないから」


 独り言のように、由衣は言う。


「うちでは、意味がないんです」


 真希は黒板を見る。

 白い粉の下に、かすかな跡が残っていた。


 完全には、消えていない。


「誰が消してるの?」


「分かりません」


 由衣は肩をすくめる。


「でも、ずっとこうでした。

 一位じゃなかったら、見てもらえない。

 理由も、過程も」


 教室の後ろの壁に、成績表が貼られている。

 一位の欄だけが、不自然なほど明るい。


 二位以下の名前は、滲んで読めなかった。


「ここ、私の名前……あったはずなんですけど」


 由衣は困ったように笑う。


「だから、書かない方が楽なんです。

 どうせ、消されるなら。

 最初から、なかったことにした方が」


 蛍光灯が、ちらついた。

 床に細い亀裂が走る。


 時計の秒針だけが、異様に速く動き始める。


 ――時間が、動いている。


「ねえ」


 真希は、由衣の隣に立ったまま言った。


「帰ろう」


 由衣は、ゆっくりと振り向いた。


「起きたら、また同じですよ」


「うん」


「夢の方が、楽です」


 それは拒絶でも、懇願でもなかった。

 ただの事実だった。


 真希は一歩も近づかず、手だけを差し出す。


「それでも」


 天井が、音を立てて崩れ始める。


 由衣はその手を見つめ、

 深く息を吸って――自分から、掴んだ。


 心電図の音が、確かに鳴っている。


 由衣は、目を覚ました。


 泣かなかった。

 笑いもしなかった。


 ただ、深く息をする。


「……夢の方が、楽でした」


 小さな声で、そう言う。


 真希は一瞬だけ言葉を探し、答えた。


「うん。でも――帰ってきた」


 病室を出て、廊下に立つ。


 白い壁。白い床。

 現実は相変わらず、味気ない。


「……次も、間に合うとは限らない」


 それでも喰崎真希は、また眠る。


 消される前に。

 沈みきる前に。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ