第八十四話
「湯希くん!」
「……おれの、じいちゃん」
杏咲を見上げていた湯希が、裾から手を放して自身の隣を指さす。湯希の隣にいるのが、外出時にいつも着用している宝物のお面をくれたと言っていた大好きな祖父なのだろう。
腰を曲げ、杖をついているその姿だけ見ればかなりの高齢そうに見えるが、その顔にはくっきりと皺が刻まれながらも溌溂として見える。
「アンタが杏咲さんか。湯希から話は聞いとるわい。……うむ、別嬪さんじゃな」
「あはは……ありがとうございます」
にかっと笑ったその顔はあまり湯希とは似ていないが、湯希と同じように、その頭上には獣耳が生えている。優しそうなお祖父さんだ。
「それにしても祭りとは、先生たちも粋なことをしてくれたんじゃな。年甲斐もなくはしゃいでしまいそうじゃわい」
「ふふ、ありがとうございます。……湯希くん、御祖父様のお好きなだいふく屋さんをやりたいって、一生懸命準備していたんですよ」
「ほぅ、そうなのか?」
「……うん。がんばった」
「それなら、早速その大福を食べに行くとするか」
「うん」
湯希は杏咲に祖父のことを紹介したかったようで、二人が話した姿を見て満足したらしい。「……いってくる」と小さく手を振って、祖父の手を取りだいふく屋の方に行ってしまった。
杏咲が再び会場を回ろうと移動していれば、また後ろから声を掛けられる。聞こえてきた声は、凡そ二か月振りに耳にする、聞き慣れたものだった。
「杏咲! 会えて嬉しいぞ」
「酒呑童子さん、お久しぶりですね! 元気そうで安心しました」
「あぁ、儂は変わらず元気いっぱいじゃ」
「……あれ、影勝くんはどうしたんですか? 確かさっきまで一緒に回ってましたよね?」
遠目で見た時は、屋台の前を早足で歩く影勝と、その後ろを楽しそうに付いて回る酒呑童子の姿を確認したのだが……。
「……巻かれてしまったんじゃ」
酒呑童子は、ガクッと肩を落とした。屋台に夢中になっている間に、影勝はいなくなってしまったらしい。しかし直ぐに気を取り直した様子で顔を上げる。
「杏咲、影勝がいそうな場所の検討はつかんか?」
「影勝くんがいそうな場所、ですか? それなら……鍛錬場ですかね」
影勝といったら、火虎と同じくらいいつも竹刀や木刀を振っているイメージがある。二人に用がある時は、私室を訪れるよりも、庭か鍛錬場に行った方が遭遇率が高いのだ。
杏咲の言葉にぱっと表情を明るくした酒呑童子は、「よし、それなら鍛錬場を見に行ってみようかのぅ」と背を向ける。しかし二歩ほど進んだところで足を止めて、杏咲の方に振り返り、その姿をまじまじと見つめる。
「それにしても……その着物、よく似合っておるのぅ。杏咲の愛らしさがより際立っているぞ」
――そうなのだ。今日は伊夜彦との約束通り、杏咲は桃色の着物に袖を通していた。
酒吞童子が遊びに来ていた時も、杏咲はラフな格好をして過ごしていたため、酒呑童子からしても杏咲の着物姿は珍しく見えるのだろう。
真正面から褒められて少し気恥ずかしく感じながらも、杏咲は素直にお礼の言葉を伝える。
「ありがとうございます、酒呑童子さん」
「あぁ。……今度は儂からも贈らせてもらうから、その時はそれを着て逢引きしようのぅ」
「あ、あいびき?」
最後に謎の誘い文句を残して、酒呑童子はこの場を立ち去ってしまった。縁側から上がってこのまま鍛錬場に向かうようだ。
着物姿を見せてほしいと言った肝心の伊夜彦は、従業員をこちらに割いていることもあり、店の方の夜の準備を終えてから来るらしい。その姿は、まだ見えない。
鍛錬場に続く廊下を進んでいった酒呑童子の背中は直ぐに見えなくなった。そちらから視線を外そうとすれば――縁側で、一人ぽつんと座る玲乙の姿に気づく。