第八十三話
「あの、すみません」
普段此処では耳にすることのない、溌溂とした女性の声に呼びかけられる。杏咲が振り返れば、大きな瞳が目を引く恰幅の良い女性が、にこにこと笑いながら杏咲を見つめていた。
「アンタが杏咲先生やろ?」
「は、はい」
「いつも息子がお世話になってます~。私は吾妻の母親で、こっちが父親」
「ど、どうも。吾妻の父です」
母親の後ろからひょっこりと現れた父親。そして、更にその後ろからおずおずと顔を出した吾妻は、もじもじと手遊びをしながら、何か言いたげに杏咲をちらちら見上げている。
――吾妻が梯子から落下するという事件があった後。
昼寝から目覚めた吾妻に杏咲が声を掛けようとすれば、あからさまに避けられてしまい、その後杏咲が何度声を掛けても素っ気ない返事しか返ってこず……とうとうまともに会話することもできないまま、今日という日を迎えていたのだ。
「さっきな、透先生に聞いたんよ。この子が危ないことした時、アンタが叱ってくれたんやろ?」
「……はい。ですが、厳しい言い方をしてしまったかもしれません。元々は私の目が行き届いていなかったせいで、吾妻くんが…「あぁ、そんな先生が謝ることないねんから!」
杏咲の言葉を遮った母親は、杏咲の肩をぽんぽんと軽やかに叩きながら、その顔に眩しいほどの笑みを浮かべる。
「むしろ、先生には感謝してるんよ。私たちはこの子のこと、つい甘やかしてしまうから……手紙にもな、杏咲ちゃんが杏咲ちゃんが~って、いっつも先生のことが書いてあるんよ。この子のこと、よう見ててくれてるんやなぁって伝わってきて……ほんまに感謝してるんやで。ありがとうね」
母親の優しい言葉が、杏咲の心の柔い部分にじわりと広がっていく。
「ほら、吾妻。先生に言いたいことがあるんだろう?」
父親に背を押された吾妻が、俯いたまま、杏咲の足元まで歩み寄ってきた。杏咲が身を屈めて吾妻を見つめれば、そろりと視線を持ち上げた吾妻と、久しぶりに真正面から目が合う。
「……杏咲ちゃん、あんな、……こ、この前は……ごめんなさい……」
絞り出すような小さな声で言葉を紡いだ吾妻に、杏咲は微笑みながら「うん」と頷く。
「私も、大きな声で吃驚させてごめんね。でもね、あの時の言葉は、吾妻くんが心配だから……大好きだから、言ったんだよ」
「……っ、うん! おれも、杏咲ちゃんのこと、大好きやで!」
杏咲の“大好き”の言葉にパッと顔を上げた吾妻は、勢いのままに杏咲に抱き着いた。
安堵からその顔に笑みを浮かべた吾妻の瞳から、溜まっていた涙がぽろりと零れ落ちて、杏咲の肩口を濡らしている。
「吾妻は、本当に杏咲先生のことが大好きなんだなぁ」
そばで見ていた父親が、抱き合う二人の姿を見てしみじみと呟いた。その言葉に大きく頷いた吾妻は、杏咲から離れて目元を擦ると、両親に向かって衝撃的な言葉を口にする。
「あんな、おれが杏咲ちゃんのこと、およめさんにしたるんや!」
「……え!?」「あっはっは!」
杏咲が驚いて声を漏らしたのと、母親が豪快な笑い声を響かせたのは、ほぼ同時のことだった。
「この子ったらまぁ、いつの間にか、こんな一丁前なことも言うようになってたんやなぁ。背もグンと伸びて……ついこの間までは、何々ができないって、泣いてばっかりやったのに」
息子の成長を喜んでいるらしい母親は、優しい表情で吾妻の頭を撫でている。
「――ということらしいんで、杏咲先生。吾妻のこと、よろしく頼みますね」
「……え!? えっと……は、はい……!」
今のはどういう意味での「よろしく」なのかとテンパる杏咲に、母親はまた“がっはっは”と大口を開けて笑う。
「杏咲先生は、からかい甲斐があってええなぁ」
「ああもうっ、嫁がすみません……!」
ペコペコと頭を下げる父親の背中を“バシンッ”と力強く叩いた母親が「声がちっちゃいねん! もっとハキハキ喋りや!」と言えば、父親は背筋を伸ばして「は、はい!」と大きな声で返事をした。完全に尻に敷かれているらしい。
吾妻はそんな二人を見てにこにこ楽しそうに笑っているから、こんなやりとりが、この家族の日常風景なのだろう。
「まぁ杏咲先生が嫁いでくるんは、ウチ的には大歓迎やけどね」
吾妻の母親は、杏咲にだけ聞こえるような声量でそう言うと、茶目っ気をたっぷり含んだウィンクを一つ落として去って行った。
母親のパワフルさに圧倒されていた杏咲だったが、他の家族の様子も見に行こうと考え歩き出す。再び会場を見て回っていれば、誰かに着物の裾をクンッと引っ張られた。