第八十一話
伊夜彦が立ち去り、再び静寂が訪れた中、廊下の角からおずおずと姿を現す者がいた。
「十愛くん?」
「……はなし、もうおわったの?」
伊夜彦が言っていた“客人”とは、十愛のことだったようだ。
「うん、終わったよ。十愛くん、目が覚めたんだね」
「うん。……桜虎たちは、まだねてるよ」
十愛は目を覚ましたばかりなのだろう。まだ少し眠たいのか、目元を擦っている。
「十愛くん、少しお喋りしない?」
「……うん、いいよ!」
トタトタと小さな足音を立てて駆けてきた十愛は、そのまま杏咲の右隣にぴたりとくっつくようにして座った。
「十愛くんは、お面屋さんの準備をしてたんだよね」
「うん。今日はね、にんじゃとおりひめさまのお面を作ったんだよ」
「ふふ、たくさん作ったんだね。十愛くんは確か……お父さんもお母さんも来てくれるんだよね?」
「うん」
「そっか。会えるのが楽しみだね」
「……うん」
嬉しそうな笑顔を見せてくれるだろうと思ったのだが、杏咲が両親のことを話題に出せば、十愛の表情は浮かないものへと変わってしまった。
「……十愛くん、どうかした?」
「……あのね、お父さんとお母さんがきてくれるの、すっごくうれしいんだよ。でもお母さんは……おれのこと、好きじゃないと思うから……」
「っ、え……?」
――今のは、どういう意味だろう?
思い返してみれば、これまで十愛の口から両親の話を聞いたことはなかった。透から説明を受けた時も、特に家庭環境に問題があるようなことも言っていなかったから、家族仲は良好なのだと思っていたけれど……。
「前もね、透に、お母さんはおれのことなんて好きじゃないって、きらいなんだって言ったら、そんなことないって……そんなこと言っちゃだめって怒られたんだ。でも……ほんとのことなんだよ?」
言葉を紡げずにいた杏咲に、十愛は不安そうな顔をして杏咲を見上げる。
「……杏咲も、おれのことおこる?」
「……ううん、怒らないよ。でも……どうして十愛くんは、お母さんに好かれてないって思うの?」
杏咲の優しい声音に、十愛はホッとしたように表情を緩めながら、理由を話してくれる。
「あのね、前に、人のせかいに行ったとき……お父さんはおるすばんで、お母さんと二人で行ったんだ。それで、おれがお母さんの心の中を読んで、お母さんに言ったの。そしたら、お母さんが……」
そこで一度言葉を切った十愛は、悲しそうに眉を下げて俯いた。
「心の中で……おれのこと、こわいって、言ってたから。……このイヤリングも、桜虎とおそろいだからつけてるのもあるけどね……ほんとは、こんな力いらないから、つけてるんだ。そしたら、お母さんもこわがらないでくれるかなって」
話を聞けば、十愛の父親は覚の妖怪でありその妖力も高いのだが、完全に心を読めるというわけではないらしい。要は感情受信体質で、その者が悲しんでいるのか、喜んでいるのか、そういった大体の感情を読むことができるらしい。
けれど十愛は、力を抑える封じのイヤリングをしていなければ、ほぼそのまま相手の心の中を読むことができてしまうのだという。
「……あっ、このこと、桜虎にはないしょだからね!」
十愛は明るい声を出して人差し指を口許に立てながら、しぃっと内緒のポーズをとる。
「……うん、分かった。二人の秘密だね」
「うん、やくそくだからね」
十愛はただ話を聞いてもらいたかっただけなのか、杏咲に何か言葉を求めるようなこともなく、普段と変わりない様子で笑っている。
「十愛くんは……お母さんのこと、好き?」
「……うん。大好き」
はにかみ笑いを浮かべた十愛の言葉は、本心からのものだろう。
だからこそ、自分は親から好かれていない、だなんて。十愛がそんな風に思っていることが、ひどく悲しくて――胸を締め付けられるような痛みを感じてしまう。
実際のところ、母親が十愛のことをどう思っているのか、杏咲には分かるはずもないけれど……子どもは誰だって、親からの愛情を一番に求めるものだ。
十愛の思いが母親に伝わっていることを願いながら、願うことしかできない自分自身にやるせなさを感じて、杏咲は僅かに自嘲の笑みを浮かべてしまう。
自分自身への不甲斐なさからくる後悔や悩みは尽きることがない。けれど伊夜彦の言っていた通り、立ち止まってはいられない。子どもたちのために自分に出来ることを、少しずつでも、頑張りたい。
「……それじゃあ、お母さんたちに喜んでもらえるように、夏祭りの準備、頑張らないとだね」
「うん! おれ、がんばる」
寝ぐせが付いた十愛の髪を撫でて整えながら、杏咲はひっそりと胸に決意を宿して笑ったのだった。