第七十九話
あの後、立て掛けてあった梯子は危ないからと、直ぐに本殿の従業員たちがやってきて片付けてくれた。
夏祭りごっこに向けての作業は今日はここまでで中断ということになり、吾妻や湯希といった年少の面々は、疲れてしまったようで昼寝をしているところだ。火虎や影勝は鍛錬場に向かっていった。
いつもの賑やかさが嘘のように、シンとした静けさで満ちた離れで、杏咲は一人縁側に腰掛けてぼうっと庭園を眺める。
今日の夕飯当番は本来なら杏咲だったのだが、透に半ば強制的に代わると言われて台所を追い出されてしまった。
「子どもたちも寝てるし、杏咲先生は今のうちに少し休んでなよ。たまには好きなことでもしてのんびりしてて」
透なりに杏咲を気遣って交代してくれたのだろう。その好意を無下にするわけにもいかないと礼を言って台所を後にした杏咲だったが、休むといっても今特にしたいことも思い浮かばず、こうして縁側でお茶を飲みながら一息ついていたのだ。
手持ち無沙汰にぼんやりと庭の景観を眺めていれば、今考えてしまうのは、やはり先程の吾妻との一件だ。涙を浮かべて小さく震える吾妻の姿を思い出して小さな溜息を漏らせば、右隣に誰かが腰掛ける気配を感じる。
「……伊夜さん」
「隣、いいか? ……って、もう座っちまってるんだがな」
カラリと笑いながら片膝を立てて座った伊夜彦は、そこに頬杖をついて、杏咲の表情を窺うようにしてじっと見る。
「離れに用があってきたんだが、ついでに息抜きも兼ねてるんだ。此処で少し休ませてもらってもいいか?」
「はい。それは全然、かまいませんけど……」
――何だか凄く、見られている気がするのだけど……気のせいかな。
そして、暫く無言の時間が続く。漂う静けさに何となくソワソワしてしまい、勝手に気まずくなった杏咲は、庭の方に向けていた視線をそぅっと動かして、横目に伊夜彦を見た。そうすれば、その視線がバチリと絡み合う。
どうやら伊夜彦は、依然として熱いまなざしを杏咲に送り続けていたようだ。
「……なぁ杏咲。何か面白い話でもあれば、聞かせてくれないか?」
「えっ? 面白い話、なんて……急に言われても思いつきませんよ」
「そうか? それなら……そうだなあ。最近あった楽しかったことでも、逆に大変だったことでも、何でもいいさ。子どもたちのことでもいいし、透の笑い話なんてのも、勿論大歓迎だ。……杏咲が今、思っていることや感じていることを聞かせてくれ」
伊夜彦がどういう意図をもってこんなことを言いだしたのかは分からない。けれど杏咲は、気づけば、燻ぶる胸の内を吐露していた。
「あの、面白い話、ではないんですけど……少しだけ、昔話をしてもいいですか?」
「あぁ。ぜひ聞かせてくれ」
隣から感じる伊夜彦のまなざしは、ひどく穏やかだ。杏咲はそっと瞳を閉じて、瞼の裏に――大好きな祖母の顔を思い描いた。
「私、両親が幼い頃に事故で亡くなっていて、祖父母に育てられたんです。私の祖母は保育士だったんですが……穏やかで優しくて、施設の子どもたちにも好かれていて。そんな祖母に憧れて、私も保育士になったんです」
「……そうだったんだな」
「はい。祖母は両親の分も愛情をそそいで育ててくれましたし、それに……たくさんの大切なことを教えてくれました。保育に、明確な正解はないんだって言ってたんです。例えば、のびのび育つようにって何でも否定せずに肯定してその子の自由を尊重すれば、その子は自己肯定感が高まるけど、その分我儘な子に成長してしまうかもしれない。厳しくし過ぎれば、ルールを守れる正しい子にはなるかもしれないけど、自分の意見を持てない子に成長してしまうかもしれない。甘えさせることとしつけの塩梅も難しいのよって」
「成程……勉強になるな」
感心したように頷く伊夜彦に、杏咲は微笑む。
「だけど――正解がない分、探り探りで子どもたちと向き合っていくしかないんだって。子どもたちと関わる中で少しずつ学んで、自分なりの保育を見つけていけばいいのよって。そう、教えてくれました」
「……そうか。杏咲の御祖母様は、優しくて立派な人だったんだな」
伊夜彦の声は優しく柔らかな響きを持っていて、そちらを見なくても、穏やかな表情で杏咲を見て微笑んでいることが分かる。
「はい。でも、保育士として子どもと関わる上で、絶対に忘れちゃいけないことがあるって教えられたんです」
「ほう。……それは何か、聞いてもいいか?」
「……愛情をもって接することと、子どもの命を守ること、です。それだけは忘れちゃ駄目よって。だから私、さっき吾妻くんが梯子から落ちそうになった時、すごく……怖くなってしまって……」
――また、守れなかったら。傷つけてしまったらどうしようって。過去の辛かった記憶を思い出して、思わず声を荒げてしまった。……もっと優しく伝えられたら良かった。目を離した私が悪かったのにって。結局、私はまた……後悔してる。
俯き黙り込んでしまった杏咲の頭を、伊夜彦はぽんぽんと励ますように軽く撫でる。
「思うんだが……杏咲の御祖母様の言う通りじゃないか? 杏咲はまだ、保育で“自分なりの正解”を捜している最中なんだろう?」
「……はい」
「それで、もし自分の行いを後悔しているんなら、後はこれからどうしていくかを考えればいいだけだ。……失敗して落ち込むことは誰にだって出来るさ。だが、そこで立ち止まったままか、歩みを止めずにいられるか――杏咲は後者の人間だと、俺は思っているがな」
杏咲が顔を上げれば、やはり伊夜彦は、依然として柔らかな目をして杏咲を見つめていた。すべてを包み込んでくれそうな、温かくて優しい表情。
杏咲の心のモヤモヤが、少しずつ融けて小さくなっていく。
「……私、吾妻くんに謝ります。でも、あの時の言葉は心配しての言葉だったってことも、きちんと伝えます」
「あぁ、それがいい。……といっても、俺は杏咲が間違ったことを言ったとは思わんがなぁ。杏咲は優しすぎるんだ」
伊夜彦はわざと拗ねたような顔を作って、杏咲の鼻先をちょんと突いた。
「ふふ。……伊夜さん。話を聞いてもらって、ありがとうございました」
「なぁに、気にするな。杏咲の心の靄が少しでも晴れたなら良かったさ」
杏咲は、改めて伊夜彦の懐の広さを実感し、感嘆にも近い気持ちを抱く。
「本当に、伊夜さんって優しいですよね。私、いつも伊夜さんに助けてもらってばかりです」
「……そうか?」
「はい、そうですよ」
「ふっ、それは本望だな。杏咲の力になれているのなら、俺も嬉しいぞ」
「……伊夜さんは、どうして……」
――こんなに優しくしてくれるんだろう。いつも気にかけてくれて、悩んでいる時にはそばに寄り添って、励ましてくれる。ただの従業員である私なんかに……なんて自分を卑下するようなことを言ったら、怒られてしまうかもしれないけど。