第七十八話
「あぶないから下りてきなよ!」
「そうだよ! 危ないよ……!」
声の聞こえる縁側の方に向かえば、庭園には十愛の他に不安そうな顔をした柚留もいて、屋根の上の方を見つめている。
杏咲も軒下にある下駄を履いて、庭に下り立った。二人の視線の先を辿れば、屋根に立てかけてあった梯子に足を掛けている吾妻の姿が目に飛びこんできた。
「あ、吾妻くん!?」
「あ、杏咲ちゃんや! 見て見て、たかいやろ~!」
どうやら屋根の修繕のために立て掛けてあった梯子に、吾妻が勝手に上ってしまったようだ。今朝方に透が勝手に上らないようにと注意していたし、皆も言いつけは守るだろうと思い、杏咲は完全に油断していた。
「吾妻くん、危ないから下りておいで……!」
「えぇ、やねのてっぺんまでもうちょっとやもん! あとちょっとだけ……」
自分が目を離してしまったせいだと焦った杏咲が梯子の近くまで駆け寄ったのと、片手を振っていた吾妻がバランスを崩して梯子ごと落下してきたのは――ほぼ同時のことだった。
「っ、吾妻くん、危ない‼」
梯子から手を放した吾妻を、杏咲は間一髪のところで抱きとめた。そのまま地面に倒れ込めば、梯子も鈍い音を立てて杏咲たちの真横に倒れてくる。
「おいっ、二人共怪我してねぇか!?」
騒ぎに気づいて慌てて駆けつけた火虎が、杏咲の肩を抱き起こす。
「……うん、私は平気だけど……吾妻くんは? どこか痛いところはない?」
「う、うん。おれも、だいじょうぶ……」
何が起こったのかいまいち把握しきれていないらしい吾妻が、呆けた顔をして答えた。
吾妻の頬や身体を触ってどこも怪我をしていないことを確認した杏咲は、ほっと安堵の溜め息を吐き出して――けれど直ぐに、その顔に怒気にも似た色を浮かべる。
「っ、吾妻くん、どうして勝手に上ったりしたの!? 透先生も触っちゃ駄目だって言ってたでしょう!? 今回は無事だったから良かったけど……!」
最悪、軽い怪我だけでは済まなかった可能性だってあったのだ。杏咲の心臓が、バクバクと大きな音を立てている。
――吾妻くんが大怪我をしていたら、また、あの時みたいに守れなかったら……。
忘れられない苦い記憶を思い出した杏咲は、堪らず声を荒げてしまった。
「……もう勝手に上っちゃ駄目だよ? 吾妻くんが痛い思いをしたら……私も悲しいから」
「っ、うぅ……」
まさか杏咲に叱られるとは思ってもみなかったのだろう吾妻は、その瞳にうるうると涙を溜め始める。大きな瞳から、今にも零れ落ちそうだ。
「透、呼んできたぜ!」
「吾妻! 杏咲先生も、怪我はない!?」
桜虎が本殿の方まで呼びに行ってくれたらしい。焦った様子の透と、その後ろには伊夜彦の姿も見える。
「ごめんね、作業中でバタバタしてたのに、俺が杏咲先生一人に任せて離れちゃったから……」
「いえ、私の目が行き届いていなかったからです……すみません」
杏咲の腕から抜け出した吾妻は、透のもとへと走っていく。腰元に抱き着いた吾妻を抱き上げながら、透は本当に申し訳なさそうな顔をして杏咲に謝罪した。
腕からいなくなってしまった温もりに少しだけ寂しさを感じながら、杏咲は伊夜彦の手を借りて立ち上がる。
「杏咲はどこか痛めたりしてないか?」
「はい、何ともないです。ありがとうございます」
杏咲が透に抱かれている吾妻を見れば、二人の視線がかち合った。けれど吾妻は直ぐに視線を逸らして、透の胸に顔を埋める。――あからさまな拒絶だった。
――今ので、嫌われちゃったかな。もしかしたら、怖がらせてしまったかもしれない。
もっと優しく伝えられたらよかった。だけど、吾妻が再び間違えてしまうことのないように、時には厳しく伝えることだって必要だと――そう思うから。
杏咲は自身にそう言い聞かせるようにしながら、胸に少しのモヤモヤを抱えたまま、心配して駆け寄ってきた十愛や柚留たちに笑いかけたのだった。