第六十五話
酒をたらふく飲み、伊夜彦の執務室から離れの寝泊まりしている部屋へと戻ってきた酒呑童子は、自身の部屋の前に誰かが座りこんでいることに気づいた。
「まだ起きとったのか。子どもは早く寝んと、大きくなれんぞ?」
「……約束、守ってくださいよ」
「……あぁ、勿論。お主が知りたがっていることを教える約束じゃったな」
腰を折って玲乙の目線の高さになった酒呑童子は、その唇に微かな笑みを浮かべて、玲乙の求める答えを口にした。
「玲乙。オマエが捜しているもんは……存外、ずっと近くにあるやもしれんぞ」
「近くに……? それってどういう、」
玲乙の頭をポンと撫でた酒呑童子は、そのまま背を向けてしまう。それ以上を口にする気はないようで、そのまま部屋に入って行ってしまった。
一人廊下に残された玲乙は、言葉の意味を考えながら空を見上げた。星が転々と高く光り、三日月が優しい光を放ちながらこちらを見下ろしている。
「……近く、か。それならどうして……」
吐き出された言の葉は、微かな夜風に溶けて、直ぐに消えてしまった。その続きが紡がれることはなく、玲乙は静かに自身の私室へと戻っていった。
***
「そんじゃあ、儂はそろそろ家に帰るとするかのぅ」
「……また、突然ですね」
皆で朝食をとっていた最中、酒呑童子は、これから散歩に行こうと提案する時と同じような軽い口調で言った。その言葉に初めに反応したのは透だ。
「あぁ。山の女たちも、儂の帰りを待っとるからのぅ」
酒吞童子の住処は、以前杏咲たちがピクニックに行ったこともある国杜山の奥地にあるらしい。またそこ意外にもいくつか住処があり、その時の気分で転々としているのだという。
「えぇ、もうかえっちゃうの?」
「もっとあそぼうや~!」
「はっはっ、すまんなぁ」
子どもたちに別れを惜しまれて、酒呑童子は嬉しそうに笑っている。
「……寂しくなりますね」
子どもたちの声に雑じって聞こえてきた杏咲の言葉に、酒呑童子は一瞬目を丸めて、けれど直ぐに眦を緩めて微笑んだ。
「杏咲からそんな風に言ってもらえるとは……嬉しいのぅ」
「酒吞童子さん、近いですよ」
酒吞童子は、さり気なく杏咲の肩に手を回して顔を近づける。しかし真正面に座っていた透に指摘され、次いで後頭部に“スコーンッ”と良い音を立ててお菓子の空箱が直撃したことで、その動きを止めた。――その空箱を投げたのが誰なのかは、ご想像にお任せするが。
「いたた、酷いのぅ」
涙目で後頭部を擦りながらも、そのまま座りなおして朝食を食べ終えた酒呑童子は、あっという間に荷造りを終えてしまった。
酒吞童子が帰るという知らせはいつの間にか伊夜彦のもとにも届いていたようで、本殿の玄関前に見送りにきた。杏咲と透、そして子どもたちが集まる中、そこに影勝の姿だけが見えない。
「私、呼んできますね」
透に一声かけて離れに戻ろうと背を向ける杏咲に、酒呑童子が待ったを掛ける。
「杏咲、よいよい。また近いうちに会えるしのぅ」
「でも……」
昨晩、酒吞童子と話したことで、彼の父としての思いが少しでも影勝に伝わってほしいと、杏咲はそう思ってしまったのだ。二人には、一度しっかり向き合って会話する機会が必要だろうと思っていたのだが……今回はこのままお別れになってしまうのだろうか。
それを寂しく感じていれば、離れの庭園から影勝が歩いてくるのが見えた。