第六十四話
吾妻や十愛に呼ばれて子どもたちの輪の近くまできていた杏咲は、酒呑童子に声を掛けた。
「酒呑童子さんのご自宅は、柚留くんのお家と近いんですか?」
「あぁ、そうじゃ。だから昔から懇意にしておったんじゃよ。一山超えて直ぐ辺りじゃな」
山を越えなければならない距離をご近所さんと呼んでいいのかは分からないが……妖界ではそんな距離、あっという間なのかもしれない。
子どもたちに引っ張られてきた伊夜彦や透も交えて、皆で写真を見て話に花を咲かせていれば、酒吞童子が突然大きな声を上げた。
「おぉ、そうじゃ思い出した。今日は儂が持ってきた、とっておきの酒を振舞おうと思っておったんじゃよ。子らも杏咲も、よう見ておれ」
どこからか酒呑童子が取り出したのは、大きな酒瓶だった。全長七十センチ以上はありそうだ。ラベルには達筆な字で“封鬼火”と書かれている。
「ほら、これを使え」
伊夜彦が漆塗りの大きな盃を酒呑童子に手渡す。受け取った酒呑童子は、今度はそれを杏咲に手渡した。
「杏咲、これを持っていてくれるか?」
「え? は、はい」
何が始まるのかと、子どもたちから期待に満ちたまなざしが向けられる。杏咲が両手で持った盃に、酒呑童子が酒をトクトクと注いでいけば――。
「うっわぁ!」
「きれ~やなぁ……‼」
「すっげぇ……」
子どもたちの感嘆の声が響いた。
――盃から、小さな花火が打ちあがったのだ。それは次第に大きくなり、桜の木の上までのぼっていき、夜空に色とりどりの、大輪の花を咲かせている。
「凄く綺麗……」
「そうじゃろう?」
立ち上がり、空に向かって両手を伸ばす吾妻や桜虎たちを見ながら、杏咲はポツリと呟いた。そして、離れた場所に座ったまま花火を見上げている影勝が視界に映り――杏咲は、隣で花火を見上げている酒呑童子に顔を向けた。
「あの、ずっと聞きたかったんですが……影勝くんはどうして、酒呑童子さんのことをあそこまで……」
その先をはっきり口にするのは躊躇われ言葉を濁せば、酒吞童子は杏咲の言いたいことを察して微笑んだ。
「……影勝はな、人間界の、人里離れた小さな集落で出会った娘との間に授かった子じゃった。あの時儂は人に化けて、妖であることを隠しておったからのぅ。そもそも身体を重ねたのも一度きりで、子を授かっておったことにさえ気づかなかったんじゃが……」
遠い日の記憶に思いを馳せるようにして、酒吞童子は花火を見つめながら話す。
「それから妖界に戻って、長らく旅に出ておってのぅ。久方ぶりにその集落へ顔を出せば、娘の叫び声が聞こえてきたんじゃ。駆けつけてみれば、影勝の実の母親である娘は、影勝の頭ににょっきり生えてきた角を見て慄いておった。儂の姿も見て、儂が妖であることに気づいたんじゃろうな。影勝を置いて、そのまま逃げ出してしまった」
「そんな……」
「まぁ、正体を隠しておった儂が悪いからのぅ。それからは儂の住まう山に影勝を連れ帰って育てとったんじゃが……上手くいかんもんじゃな。世話も配下達に任せきりになってしもうて……気づいたらこうじゃ」
酒吞童子は、柚留と話している影勝に目を向けた。
「それじゃあ、影勝くんが人間や女の人が嫌いなのって……」
「あぁ、母親の影響じゃろうな。影勝は、母親が出ていったあの日のことを覚えておるじゃろうし。それにまぁ、儂は根っからの女好きじゃろう? 酒の席に影勝を連れていくことも多かったんじゃが、女に絡まれる度に不快な顔をしとったのぅ」
母親のこともあったというのに、苦手意識を持つ女性にグイグイ絡まれれば、それはますます女の人に嫌悪感を抱いてしまうのも、仕方のないことなのかもしれない。
「だからのぅ、人間嫌い女嫌いのアイツが、杏咲と真っ向から会話しているのを見た時は驚いたんじゃ。儂は勿論、誰も信じんみたいな顔して人との関わりを絶っておった……アイツがのぅ」
影勝を見つめる酒吞童子のまなざしはやわらかく、温かな光を帯びている。
――多分酒呑童子さんは、不器用なんだろう。影勝くんを大切に思っていて、でも距離を縮めるためにどうしたらいいのか分からなくて。それでも、酒吞童子さんなりに父親として、影勝くんに接しようと頑張っていたんだろう。
「でも、影勝くんは……本気で酒呑童子さんを嫌っているわけではないと思いますよ」
「……何故そう思う?」
「だって影勝くん……口ではあんなことを言ったり嫌そうな顔をしてますけど、遠くから、よく酒吞童子さんのことを見ていたんです。無意識なのかもしれませんけど……本当に嫌いだったら、わざわざ気にしたりしないんじゃないかなぁって。あとは……保育士の勘、ですね」
「クッ、……はっはっ、成程のぅ。杏咲の言うことなら、信用できそうじゃ」
杏咲の返答に一頻り笑った酒呑童子は、杏咲の目を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「杏咲。――これからも、バカ息子を頼むぞ」
「……はい。任されました」
再び影勝に視線を送る酒呑童子の瞳は、花火の眩い光を反射して揺らめき、優しい色をしている。
今隣にいる酒呑童子は、いつもの飄々とした姿ではなく――子を思う親の顔をしていると。杏咲はそう思ったのだった。
***
夜桜見を終えて、子どもたちや杏咲が寝静まった後。酒呑童子と伊夜彦は、伊夜彦の執務室で酒を飲んでいた。
先ほどまでの賑やかな空気が嘘のように、室内はシンとした静けさで満ちている。遠くからは、客の女たちの笑い声と、シャンシャン、と軽やかな三味線の音が聞こえてきた。
「杏咲は良い娘じゃのう」
「……あぁ」
「街で一目見て分かったぞ。オマエの妖気が纏わりついとったからなぁ」
「杏咲は透と違って、身を守る術もないからな。悪鬼に連れてかれねぇよう、牽制も込めてんだよ」
「確かに、オマエみたいな執念深~い大妖怪のモンに手を出そう、だなんて考える輩は、余程の大馬鹿者じゃろうなぁ」
「……その大馬鹿者が、此処にいたってわけだな」
「くっくっ、違いない」
伊夜彦の皮肉にも愉しそうに笑いながら、酒呑童子は杯を呷る。そして、手元にある杏咲の写真を見ながら懐かしそうに目元を和らげた。
「やはり、似ているのぉ……あいつに」
「……あぁ。そうだな」
酒吞童子は、窓辺に座っている伊夜彦に声を掛けた。視線をやるが、伊夜彦は庭に咲き誇る桜を見つめたままで、こちらに振り向く様子は見られない。
穏やかな声色で頷いた伊夜彦が、今どんな表情をしているのか――それは終ぞ分からなかった。