第六十話
「よし、そんじゃあ杏咲は隠れとってくれ!」
「……は、はい。分かりました」
玲乙から視線を外した杏咲は、酒呑童子に先に行くよう促され、一人で本殿の廊下を進んでいく。数分ほど歩いて子どもたちの姿も見えなくなったところで、その足をピタリと止めた。
「分かりましたとは言ったものの……」
普段離れで過ごしている杏咲は、本殿の敷地に詳しいわけでもないのだ。杏咲が立ち入ったことのある部屋といえば、初日に接待を受けた客間と、酒呑童子の執務室くらいだろう。
何処に隠れようかと廊下を進みながらうろうろしていれば、左側の壁の下の方に、可愛らしいイラストが描かれていることに気づいた。薄れているその絵は小さな子どもが描いたような稚拙なものだが、どこか温かみを感じる。
「これ、誰が描いたんだろう。多分狐の絵……だよね?」
屈んで暫くその絵をじっと見ていた杏咲だったが、今は隠れる場所を探していたのだったと思い出す。立ち上がろうと、何とはなしに壁に手を付いた。すると――。
「……ん?」
杏咲の耳に、ガタッと、何かが外れるような音が聞こえてきた。
「……凄い。これ、隠し扉?」
何もなかった壁に突如として現れたのは、杏咲一人がやっと通れるくらいの高さの、小さな鉄製の扉だった。隠し扉だなんて、本当に忍者の屋敷みたいだ。そっと中を伺ってみれば、扉の先は薄暗く、此処が何のための部屋であるのかは全く分からない。
――でも、勝手に入るのはよくないよね。
暫し逡巡した後、そのまま扉の前を通り過ぎようとした杏咲だったが……。
「――、――」
扉の奥の方から、微かにだが、話し声が聞こえてきた。――此処に誰がいるのか、何をしているのか。ムクムクと湧き出てくる好奇心に逆らえず、杏咲はくるりと方向転換する。
「ちょっとだけ……。お邪魔します……!」
一歩、鉄製の扉の向こうに足を踏み入れれば、杏咲の斜め上空に、ぽわっと明かりが灯った。恐る恐る視線を持ち上げれば、あっかんべーをした愛嬌のある顔つきの提灯お化け二体が、杏咲の足元を照らしてくれていて。
「……提灯お化けさん、ありがとう」
提灯お化けは、ふわりと揺れながら応えてくれる。お礼を言った杏咲は、下の方へと伸びている階段を、一段一段下っていった。
***
「いくで~、にんぽう、ぶんしんのじゅつ!」
本殿の廊下を歩いていた吾妻が呪文を唱えれば、吾妻の背後にいた湯希がぱっと姿を現して、吾妻と同じポーズをとっている。湯希の表情は変わらずの無表情ではあるが、その瞳は、いつもより生き生きとして見える。
「おぉ、スゲぇな! オレたちもやってみるか?」
「やらない」
玲乙の肩に手を乗せた火虎だったが、ピシャリと否定の言葉を返されて「ちょっとくらいいいじゃんかよ~」と唇を尖らせている。
「おぅ、随分楽しそうなことやってるじゃねーか」
「あ、伊夜さんだ!」
「おわ、ひっぱるなって!」
廊下の向こう側からやってきた伊夜彦に一番に気づいた十愛と、その手に引っ張られた桜虎が駆け寄れば、二人の頭を撫でながら、伊夜彦は子どもたちを見渡した。
吾妻と湯希の“分身の術”もばっちり目にしていたようで、その場に屈んで近づいてきた二人の頭もわしゃわしゃと撫でる。
「ほぅ、吾妻と湯希は分身ができるのか。すげぇなぁ。今度俺にも教えてくれるか?」
「いいで! 伊夜さんにとくべつにおしえたる!」
「……いいよ、とくべつ」
「ありがとな」
吾妻と湯希と話していれば、伊夜彦に頭を撫でてもらってご機嫌な十愛が、伊夜彦の着物の袖をクイっと引っ張りながら“聞いて聞いて”とその口を開く。
「いまね、おきめさまの杏咲のこと、たすけにいくんだ!」
「杏咲がお姫さん? ……あっはっは、それはいいな。俺も助けにいきたいところだが……」
伊夜彦が最後まで言葉を言いきる前に、待ったの声が掛かる。
「……伊夜さんは、だめ。だって伊夜さんは……にんじゃじゃない……」
「せや! おひめさんをたすけられるんは、にんじゃだけなんや!」
湯希と吾妻の言葉に瞳を瞬いた伊夜彦は、一拍置いてまた愉しそうな笑い声を上げる。
「ははっ、確かにそうだなぁ。そんじゃあ姫さんの救出は、オマエたちに任せたぞ」
「うん、まかせといて!」
屈んでいた伊夜彦は立ち上がり、次いで火虎と玲乙に視線を移す。
「ほぅ、火虎と玲乙も一緒に遊んでたのか」
「へへ、忍者服、結構似合ってるだろ?」
「……」
「あぁ、よく似合ってる」
腰に手を当てて胸を張る火虎と、無言でそっぽを向いている玲乙の頭を撫でながら、伊夜彦は再び視線を巡らせる。けれど伊夜彦が捜す者は、この場には見当たらない。
「……で、酒呑童子の奴はどこに行ったんだ?」
「影くんのおとんはな、わるものなんやって!」
「オレを見つけてみろ~って、始まった途端どっか行っちまった」
「はぁ、ったく、アイツは……」
呆れた溜息を漏らしながら、その顔には微笑を浮かべて、伊夜彦はひらりと手を振る。
「まぁ姫さん探し、頑張るんだぞ。俺は仕事があるから行くが……姫さんにもよろしくな」
そう言って、その場を後にしたのだった。