第六話
空は快晴。どこまでも続いていそうな青空が広がっている。
今日の杏咲は、白のチュニックに黒のボトムスというシンプルなコーディネートに身を包んでいる。伊夜彦に普段着で構わないと言われたため、比較的動きやすいような服装を選んできたのだ。
――伊夜彦たちと衝撃の出会いを果たしたあの日から、瞬く間に三日が経過していた。そして今日は杏咲の再就職日(仮)であり、これからお試しとして働く日々が始まるのだ。
伊夜彦に珠玉の橋の前で待っているよう言われた杏咲は、約束の十分前に到着して彼を待っていた。そわそわと落ち着かない様子で、指先をさすったり前髪を整えたりして気を紛らわせようとする。
あの日は驚きの連続で感覚が麻痺していたのもあったが、日が空いたこともあり、色々と考えてしまったのだ。
――あの化け物って、結局何だったんだろう。まず、この橋から移動したあの場所って、一体何処なんだろうか。見たことも聞いたこともない場所だったし、おかしなコスプレをした人たちがいたのも不可解だ。それに十愛くんたちの面倒を見てくれって言われたけど、あの子たちは料亭で生活しているということなのだろうか? どうして? 何か理由があるの?
数々の疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
「お、早いなぁ」
考えこんでいる内に、気づけば視線は足元に向けられていて、人が近づいていることに気づけなかった。
杏咲がハッとした様子で顔を上げれば、そこには待ち人の伊夜彦が立っていた。
「おはようさん。悪いな、遅くなっちまって」
「おはようございます。いえ、私が早く着いてしまっただけなので」
あの日と変わらない、上等そうな布で仕立てられた黒い着物に身を包んでいる伊夜彦。その相貌の美しさも相変わらずだ。
「それじゃあ、行くか」
伊夜彦が片手を差し出してくる。そっと手を掴めば、ふわりと引き寄せられた。距離が縮まれば、香だろうか。甘い花のような、柔らかな匂いが杏咲の鼻腔をくすぐった。
以前と同じように、伊夜彦に目元を覆い隠される。暗闇の中、確かに感じる温もりと花の香りに包まれて――杏咲はその場から姿を消したのだった。
***
料亭の客間の一室にて。
杏咲は勧められるまま、座布団の上に腰を下ろした。対面するような形で目の前に座った伊夜彦は、従業員であろう男が淹れてきてくれたお茶を啜りながら、ほうっと息を吐いている。
「茶菓子もあるからな。そんなに固くならないで、くつろいでくれよ」
「はい、ありがとうございます」
「よし。――まず、杏咲には色々と話しておかなければならないことがある。そうさなぁ、何から話すか……」
顎下に手を添えて、伊夜彦は悩まし気な顔をする。
杏咲もお茶を飲んで、喉の渇きを潤した。伊夜彦が話し出すのを待っていれば、部屋の出入り口から誰かの声が聞こえてくる。
「伊夜さん? 俺だけど、入っても大丈夫?」
「おお、待ってたぞ。入ってくれ」
ゆっくりと襖が開かれる。そこに居たのは、杏咲が一度対面したことのある人物だった。
「あれ? 君は確か、あの時の……」
相手も杏咲のことを覚えていたようだ。瞳を瞬いて驚いた様子の彼は、あの日店の前で出会った茶髪の男性だ。今日は紺色の着物を着て、眼鏡をかけている。確か、伊夜彦が呼んでいた名前は――
「改めまして、水無瀬透です。君は伊夜さんの命の恩人さん、だよね。……そういえば、君の名前を聞いてなかったな」
「あ、私は双葉杏咲っていいます」
「双葉さんね。うん、ばっちり覚えたよ」
にこりとやわらかな笑みを浮かべて手を差し出してくる。握手ということだろう。
杏咲も手を差し出せば、そっと握られた手はすぐに離れていった。
「よろしくね」
「あ、はい。こちらこそ」
――やっぱり、ここで働いている男性は、皆顔が整っている。
杏咲はそんなことをしみじみと思った。
もしかしてこの店は、採用にあたって顔立ちの美しさを必須条件にしているんじゃないだろうか、なんて馬鹿なことまで考えてしまう。この店が本当にホストクラブなのだとしたら、その考えも、強ち間違ってはいないのかもしれないが。
「よし、自己紹介も済んだことだし、透も座ってくれ」
「分かりましたよ。でも急に呼び出して、一体何の話?」
「ほら、この前言っていただろう? 人手が足りないってな」
「……あぁ、そんなことも言ったっけ。……え、もしかして」
「ああ。そのもしかして、だ」
杏咲を置いてけぼりにして進められる会話。黙って成り行きを見守っていれば、伊夜彦と透の瞳が、同時に杏咲に向けられた。
「……成程ね。だから俺を呼び出したってわけか」
「そういうことだ」
「あと、一応確認しておくけど……双葉さんはあっち側の人間ってことで、間違いないよね?」
「あぁ、そうだな」
――あっち側の人間? 一体どういう意味だろう。
「あの、あっち側の人間って……どういうことですか?」
疑問をそのまま口にすれば、伊夜彦と透は再度視線を交わし合う。
「まさかとは思うけど……伊夜さん、彼女に何一つ説明してないわけ?」
「あぁ、そのまさかだ。これから話そうと思っていてな」
「はぁ、全く……まぁ伊夜さんらしいけどね」
呆れきった様子で溜息を落とした透だったが、その顔にはすぐに仕方ないなぁといった柔らかな笑みが浮かぶ。
「ごめんね双葉さん、話を中断させちゃって」
「い、いえいえ。全然大丈夫です」
申し訳なさそうに眉尻を下げる透に、杏咲は小さく首を振って返す。
そんな二人の姿を横目にマイペースにお茶を啜っていた伊夜彦は、会話が途切れたタイミングでおもむろにその口を開いた。
「それじゃあまぁ、順を追って話すが――まず単刀直入に言えば、ここは杏咲の住む人間界ではない。妖や、下界に降りてきた神々が住まう世界だ」
「……。……え~っと……」
――どうしよう、分からない。妖や神様が住む世界って何?
理解が追い付かずに固まる杏咲。その姿を見た透は、そっと口を挟む。
「突然こんなこと言われても、戸惑いしかないと思うんだけどさ。まだまだ驚きの連続だと思うから……とりあえず、最後まで伊夜さんの話を聞いてもらってもいいかな? で、その後双葉さんには疑問に思うことを聞いてもらうっていうのがスムーズで良いと思うんだけど……どうかな?」
半ば呆然としながらも杏咲が透の提案に頷いて返せば、それを見届けた伊夜彦は、更に言葉を続ける。
「それじゃあ、続けるぞ。さっきも言った通り、ここは妖や神々の住まう世界だ。で、この店は妖御用達の店でな。日中は料亭を営んでいるが、夜の時間帯には遊郭になる」
「遊郭、ですか」
――成程。あの日に感じたホストクラブのようなお店の雰囲気には、これで納得がいった。
「で、此処で働いてるのは大半が半妖だ」
「半妖って……人間と妖の血が半分ずつ流れてるってことですか?」
「あぁ、その通りだ。半妖っつーのは、この世界ではかなり希少な存在なんだ。妖同士で契りを結ぶ者がほとんどだからな。……まず、人間界に行ける妖も早々いるわけじゃない。俺のように霊力のある妖や、高貴な神々だけだ」
「えっと、つまり……伊夜さんは妖ってことですか?」
「あぁ、そういうことだ」
「……伊夜さん、それも伝えてなかったんだ」
透がぽつりと漏らす。しかし伊夜彦は笑って返すだけで、特に気にした様子もない。そんな反応に、透はまた小さく溜息を漏らした。
「だからまぁ、そんな霊力のある妖や神と人との間に授かった子ってのは、本当に希少なのさ。食らえば不死の力が手に入る、なんつー古臭い迷信を持った輩もいる。……あの晩、十愛たちを襲った輩がいただろう? あれも、そういう類の妖だ」
杏咲は、あの晩のことを思い出した。――赤黒い肌をした、不気味な化け物の姿。今でもはっきりと思い出すことができる。あの日の夜は夢に化け物の姿が出てきて何度も目が覚め、中々寝付けなかったのだ。