第五十話
「あれ、杏咲は?」
台所に顔を出した十愛は、開口一番そう尋ねた。声を掛けられた透は、持っていた包丁を置いて振り返る。
「杏咲先生なら今おつかいに行ってるよ。ちょうど味噌が足りなくなっちゃったから、お願いしたんだ」
「えぇ、おれもいきたかったなぁ」
ぷぅっと頬を膨らませる十愛に「また今度ね」と笑いかけた透は、次いで後ろにいた桜虎に目を向ける。
「桜虎は鍛錬場にいたんだよね? 杏咲先生、誰と買い物に行ったの?」
「はぁ? アイツ、たんれんじょうになんてきてねぇぜ」
「……え?」
――テン、テン、テン。台所に静かな沈黙が広がった。
かと思えば、透は急ぎ足でどこかに向かっていく。
「あっ、透ってばどこいくの?」
その後ろを追いかける十愛と、同じくどこに行くのか気になるのだろう、静かについてくる桜虎。辿り着いた先は鍛錬場で、そこには未だ稽古を続けていたらしい火虎と玲乙、影勝の三人がいた。
「ん? もしかして透も稽古しにきたのか?」
「違うよ。ちょっと確認したいんだけど……さっき杏咲先生がこなかった?」
「……此処にはきてないと思うけど」
桜虎と同じ返しをした玲乙に、透は眉をひそめた。そこに、火虎が思い出したかのように声を上げる。
「……ん? そういえば、アイツならさっき覗きにきてたぞ。何で入ってこねぇんだろうって思ってたら、すぐどっか行っちまったけど」
「はぁ、そういうことか……」
全てを察したらしい透は溜息を吐いて、杏咲が一人で買い物に行ったであろう経緯を話した。
「――ということだから、俺、ちょっと外を見てくるよ。まだ陽が出ているとはいえ、夜の帳が下りれば何があるか分からないからね」
「ならオレも一緒に行くぜ。アイツが鍛錬場にきてたことには気づいてたのに、そのまま見送っちまったし……」
後頭部を掻いた火虎は、どこか気落ちげな表情をしている。杏咲を一人で行かせてしまったことに、申し訳なさを感じているのだろう。
火虎が気に病むことなど何一つないと告げようとした透だったが、そう言ったところで簡単に納得する子ではないからなと思い直し、その申し出を受け入れることにした。
「うん、わかったよ。火虎も一緒に行こうか」
「おう!」
杏咲を迎えに行くため、そのまま鍛錬場を後にしようとした二人だったが――そう簡単に進めるはずもなく。二人を引き止める声が響き渡った。
「えぇ、それならおれもいきたい! ねぇ、いいでしょ?」
振り向けば、そこには片手を挙げて元気よくアピールする十愛の姿が。透は内心で「(やっぱりそうなるよなぁ)」と苦笑いしながら、その場に屈んで十愛と目線を合わせる。
「十愛には、留守番をお願いしたいんだ」
「えぇ、やだ! おれも杏咲のこと、むかえにいきたい!」
ヤダヤダと首を振る十愛の頭を、透は大きな掌でそっと撫でる。
「でも、もしかしたら杏咲先生の方が先に帰ってくるかもしれないでしょ? その時に十愛の姿が見えなかったら、杏咲先生、寂しがると思うんだけどなぁ」
「えっ……そう、かな?」
「うん、そうだよ。それに、十愛がお手伝いで夕食のお皿を並べて待っててくれたら、きっと杏咲先生、すごく喜ぶと思うよ」
「っ、……わかった。おれ、おてつだいしてまってる! だから……透、はやく杏咲のこと、見つけてきてね」
「うん、もちろん」
どこか不安そうな顔で透の着物の袖口をぎゅっと握っていた十愛だったが、力強く頷いた透の表情を見て安心したようだ。十愛の顔にぱっと笑顔が浮かぶ。
「透、火虎、いってらっしゃい! ……桜虎、はやくおさらだしにいこ!」
「ぉわっ、わ、わかったからひっぱるんじゃね~よ!」
杏咲に褒めてもらうんだと張り切った様子の十愛は、桜虎の腕を掴んでぐいぐいと引っ張っていく。そのまま台所に向かっていった二人の後を、玲乙が静かに追いかける。
「……二人のことは、心配しなくていいから」
「うん。ありがとう、玲乙」
擦れ違いざま、玲乙が静かな声色で放った言葉に、透は微笑む。
表情も乏しく言葉数も少ない玲乙は一見冷たいようにも見えるが、やはり最年長なだけあって面倒見が良い。
十愛たちだけで台所に向かわせることに多少の不安も感じていた透だったが、玲乙なら付いて行ってくれるだろうと予測して、十愛に夕食準備の手伝いを頼んだのだ。
「よし、それじゃあ行こうか」
「そうだな。あ、影勝はまだ稽古続けんのか?」
「……あぁ」
「そっか。そんじゃあ行ってくるな!」
透と火虎も出て行ってしまい、つい先ほどまで賑やかだった鍛錬場は静寂に包まれた。
会話に参加することなくその場に残った影勝は、一人竹刀を振り続けていたのだが――脳裏に浮かび上がった杏咲の笑顔に、小さく舌を打ってその竹刀を下ろした。
「……チッ」
集中力が切れたのだろう。頭をガシガシ掻いて溜息を吐き出した影勝も、鍛錬場を出ていく。その足が向かう先は、十愛たちがいる台所だ。
――別に、手伝うつもりなんかない。ただ……腹も空いたし、アイツらが余計なことして飯を食うのが遅くなっても面倒くせぇから……見張っとくだけだ。ただ……それだけだ。
そんな、誰に聞こえるでもない言い訳じみた言葉を、胸中に並べ立てながら。杏咲の安否を気にしている自身の気持ちには――気づかない振りをして。
影勝は、台所へと向かったのだった。