第四十八話
長い間降り続いていた雨脚もようやく遠のき、澄み渡る青空が広がる六月下旬のある日。
“妖花街夢見草”の離れから見える桜の木には、依然として美しい桃色の花弁が咲き誇っている。通常ならその木々は美しい緑に変わっているはずだが、此処は夢見草の店主である伊夜彦の妖力によって、通常より長い間花見を楽しむことができるのだ。
しかしこれから本格的に暑さを増していけば、この景色も薄桃色から新緑へと少しずつ色を変えていくのだろう。
シンと静まり返った大広間から外の景色をぼんやりと眺めていた杏咲だったが、声を掛けられたことで視線をそちらに移した。そこにはにっこり満面の笑みを浮かべる吾妻がいて、両手で持っていた白い半紙を杏咲の眼前にパッと広げて見せてくれる。
「杏咲ちゃんみてみて! できたで!」
「ん? どれどれ……うん、とっても上手に書けてるね!」
「ほんまに?」
「うん。吾妻くん、がんばって書く練習たくさんしてたもんね」
「へへ、おかんとおとん、よろこんでくれるやろか?」
「もちろん! お母さんもお父さんも、すっごく喜んでくれると思うよ」
杏咲の言葉を聞き半紙に目を落とした吾妻は、満足そうに口許を緩めている。
吾妻がその手に持っていたのは、両親に向けての手紙だった。「おかん・おとん、いつもありがとう!だいすきやで!!」と、橙色のクレヨンで大きく書かれている。
隅の方には両親の似顔絵であろうまあるい顔が二つと、描くスペースがなくなってしまったのだろう、その隣には小さな小さな向日葵が三つ並んでいた。拙いながらも一生懸命さが伝わる、愛の溢れる手紙だ。
ここ妖の世界では、文字の読み書きといった最低限の知識は幼い頃に家庭で教わることが多いようだが、教養といった面に関しては、こちらの世界にも人間界での学校のような教育機関に似たようなものも存在するらしい。人間界での学校程大規模ではないが、少人数で集まって勉学に励む場所等もあるのだと、この前透に教えてもらったのだ。
まぁこの世界には義務教育なんて制度は存在しないので、学ぶも学ばないも、結局は各々の自由になるのだが。
吾妻も両親から読み書きを教わってはいたそうなのだが、まだ文字の書き取りが上手くできないとのことだったので、数日前から空いている時間に杏咲が教えているのだ。
最近では読み聞かせた絵本の内容を覚えて、文字をお絵描き帳に書いている姿も見られる。妖が皆そうなのかは分からないが、吾妻の飲みこみの速さに杏咲は内心で驚いていた。
もしかしたら、人間に比べて半妖の方がずっと成長速度が速いということにも関係しているのかもしれない。
「なぁなぁ、こんどは杏咲ちゃんにもおてがみかいてもええ?」
「え、私にも書いてくれるの? ふふ、嬉しいなぁ。楽しみにしてるね」
嬉しそうに顔を綻ばせた杏咲が黒と金色の柔らかな髪をそっと撫でれば、吾妻は気持ちよさそうに目元を細める。もっと撫でてくれと言うように杏咲の胸元に頭を近づけてくる吾妻に可愛いなぁと笑ってしまいながら、杏咲は他の子どもたちにも目を向けた。
今大広間に集まっているのは、杏咲に吾妻、十愛と湯希と柚留の五人だ。いつもは賑やかな空間がシンと静まり返っていたのは、子どもたちが手紙を書いていたからなのだ。
杏咲への手紙を書くために再び机上に向かった吾妻から視線を外し、真横にこんもりと溜まっている洗濯物を畳んでしまおうと考えていれば、机上に向けていた顔をパッと上げた十愛と目が合った。吾妻同様、半紙を持って杏咲のもとにやってくる。
「十愛くんもお手紙、書けたのかな?」
「……これ、杏咲にあげる」
「えっ、私に?」
頬を染めて愛らしい笑みを浮かべた十愛が手渡してきたのは、杏咲に向けて書いてくれたらしい手紙のようだった。二つ折りにされたそれをそっと開いてみれば、杏咲を書いてくれたのだろう、着物を着た女性の姿が描かれていて、その下には「あさ、だいすきだよ」と桃色のクレヨンで書かれている。語尾にはハートマークの可愛らしいおまけ付きだ。
「っ、ありがとう十愛くん……! とっても嬉しいよ」
杏咲がお礼を伝えれば、十愛はもじもじと身体を揺らしながら、杏咲を上目遣いで見上げる。
「……おれ、じょうずにかけてる?」
「うん、と~っても上手だよ! 可愛く描いてくれてありがとう、十愛くん。宝物にするね」
杏咲の心の底から嬉しそうな、満面の笑みを見て、十愛はぱちりと瞳を瞬いた。しかしすぐにその顔を綻ばせて、杏咲と同じように満面の笑みを浮かべた。
「へへ、杏咲がうれしそうで、おれもうれしい!」
「っ、……十愛くん、かわいすぎるよ……」
十愛の愛らしい笑顔と言葉に胸をときめかせた杏咲は、堪らずに胸元を手で押さえた。きゅんきゅんと込み上げてくるときめきを抑えるためだが、そんな杏咲を見てこてん、と不思議そうに首を傾げる十愛の姿に、ときめき数値はぐんぐん上昇していくばかりだ。
――二か月前は、ここまで懐いてもらえるなんて思ってもみなかったなぁ。
そんなことを考えながら、杏咲は十愛から貰った手紙にもう一度視線を落とした。
ドロケーをしたあの日以来、十愛の杏咲に対する態度は一変した。思いを言葉で、時には態度で、真っ直ぐ伝えてくるようになったのだ。
ここ最近お風呂は毎日十愛から「いっしょにはいろ!」と誘いにきてくれるし、髪を乾かしてほしい、眠るときに絵本を読んでほしいなどと素直に甘えてくれるようになった。
御飯時になれば杏咲の隣に座るのを吾妻と競い合い、そして二人が言い争っている傍らで、湯希が静かに杏咲の空いた隣の片方を勝ち取るという流れが見慣れた光景となっているのだが――そうこうしているうちにまた、吾妻と十愛による競い合いという名の、杏咲の取り合いが始まってしまった。
「杏咲ちゃん杏咲ちゃん、おれもかけたで!」
「ちょっと吾妻! 杏咲はいまおれとはなしてるんだから、じゃましないでよね!」
「ちょっとくらいええやん! おれもいれてや~!」
「い、や!」
ぷくっと頬を膨らませた二人に挟まれた杏咲は、言い合いを止めなければと思いながらも、自身に構ってもらいたくて顔を突き合わせている二人の姿に――心の底から愛おしさが込み上げてきてしまって、緩む口許を抑えるのに必死になっていた。
「……おれも、かけた」
「あ、あの、ぼくもかけたので、みてほしいです……!」
そんな騒がしい空気の中、そっと近づいてきたのは湯希と柚留だ。洗濯物をどかしてちゃっかり杏咲の両隣に座った二人は、自身の書いた手紙を杏咲に“みてみて”と控えめにアピールしている。
「湯希くんはおじいさんを描いたんだね。お髭が格好良くてとっても素敵! 横に色々描いてあるのは……これは犬さんかな?」
「……ちがう。これは、ねこ」
「わ、そうだったんだね。ごめんね?」
少しだけムッとした顔をする湯希だったが、本気で怒っているわけではないようで、すぐに表情を戻して杏咲に描いた絵を一つ一つ説明していく。
「これは、このまえ見つけたねこ、で……これは、このまえ食べた……おにぎり」
「この前皆でピクニックに行った時のだね。湯希くん、一生懸命握ってくれたもんね」
「うん。……すごくたのしかった、から……じいちゃんにも、おしえてあげたくて」
照れくさそうに顔を俯かせて話す湯希の頭を、杏咲はそっと撫でる。目を閉じて気持ちよさそうにその手を受け入れた湯希は、声量を落として、紙面上に描かれた桃色の顔を指さした。
「あと、これは……」
そこまで言った湯希は、僅かに躊躇うような素振りを見せてから、その指をそっと杏咲へと向けた。
「もしかして、私のことを描いてくれたの?」
「……」
小さく頷いて返した湯希に、杏咲は嬉しそうに口許をほころばせて「ありがとう」とお礼を言う。そうすれば、湯希はほっと安堵したような表情を見せて、再びコクリと、小さく頷いた。
「柚留くんは、お父さんとお母さんへのお手紙を書いたんだよね。……うん、やっぱり柚留くんは字がとっても綺麗だね。下の方に描いてあるお花の絵も、とっても上手! 花弁がお星さまの形になってるんだね」
「は、はい。この前読んだ本に書いてあって……なのでこんな感じなのかなって、想像しながら描いてみたんです」
「そっかぁ。それって、何て名前の花だったか分かるかな?」
「えっと、確か……ぺんたすっていう名前の花でした」
ペンタスは、小さな星のような形をした花弁をたくさん咲かせる可愛らしい花だ。色は白からピンク、赤などと様々で、初夏から晩秋頃までその美しさを楽しむことができる。
「ペンタスかぁ。綺麗な花だよね。……そうだ! 確か家に植物図鑑があったはずだから、今度持ってくるね。そこに色々な植物の写真が載ってるんだよ」
保育士として働いていた時、園児たちと散歩に行けば、野草や昆虫など、興味を引かれるものを見つけた子どもたちに「これなに?」と聞かれたものだ。
「何で○○はお空を飛べるの?」「どうして○○は何色なの?」といった質問攻撃に少し困ってしまうこともあったけれど、時に大人でさえも気づかないような面白い発見や気づきを教えられて、こちらがハッとさせられることもあるのだから――子どもたちの視点は侮れない。子どもたちは見つけるのがとっても上手な、ちびっこ探検家なのだ。
そんな子どもたちの疑問に答えられるようにと買ったものの一つが、図鑑だった。自身も分からない植物を見つけた時には、園に帰って子どもたちと一緒に図鑑を見て探したりもした。
お目当ての花を見つけた時の、子どもたちの「あったよ!」というキラキラした表情が可愛かったなぁ、なんて。――杏咲は懐かしい記憶を思い出した。
「ありがとうございます……! ずかん、楽しみです!」
「ふふ。……そうだ、今度散歩に行った時、ペンタスの花を探してみようか。もしかしたら妖の世界にも咲いているかもしれないしね」
この前行った国杜山には見たことのない美しい花も数多く咲いていたし、ペンタスの花だって咲いているかもしれない。
「……おさんぽ、おれもいきたい」
「うん。湯希くんも一緒に、皆で行こうね」
そんな会話をしながら、ほのぼのとした空気の中、三人で談笑を続けていれば……。
杏咲の両隣にピタリとくっつく二人にようやく気づいた十愛と吾妻が「「あぁ~! ずるい!」」と騒ぎ始めたのは――言うまでもないだろう。