第五話
「ギヒッ、ギヒヒ、嗚呼、ウマそうだなぁ。ギヒッ、早くタベタイなぁ」
――そこには、得体の知れない“ナニか”が居た。
背中の方から見え隠れしているのは、薄汚れて、所々に穴の開いた茶色い羽のようなもの。顔には、ぎょろりとした目玉が三つ。着物は所々破けていて、そこから見える肌は赤黒い。
「っ、な、に……これ……」
これも、コスプレの類なのだろうか。否、それにしてはリアルすぎる。
見た目の異端さに加えて漂う悪臭も、現実逃避しそうになる杏咲の思考を引き戻すには十分だった。
「っ、ケッ、でやがったな」
「お、桜虎、どうしよう……!」
「だ、だいじょーぶだ! こんなざこ、オレがやっつけてやるよ!」
恐怖に涙ぐむ十愛を安心させるように、力強い声で自身の胸の辺りを叩いてみせる桜虎。
しかしその身体は小刻みに震えており、強がっているだけだということが一目で分かる。
「ギヒ、ギヒヒ、その子どもを、寄越セ」
どうやらこの化け物の狙いは子どもたちみたいだ。それに気づいた杏咲は、覆い被さるようにして二人を抱きしめた。
「なっ、て、てめー、なにやってんだよ!」
「そ、そうだよ、あんたばかじゃないの!? はやくにげなよ!」
杏咲の腕の中から抜け出そうと必死にもがく二人。しかし杏咲は更にその腕の力を強める。
「っ、この子たちは、渡しません」
杏咲の意志の籠った一言に、二人は暴れるのを止めた。
――ふるえてるじゃん。ほんとうはこわいんでしょう? いますぐにげだしたいんじゃないの? あんたなんて、おれたちとなんのかんけいもないのに、どうして……。
恐怖を飲み込んで、自分たちを必死に守ろうとする杏咲の姿に――十愛と桜虎は、ひどく堪らない気持ちでいっぱいになった。
「ギヒ、ギヒヒッ、じゃあ、おまえを殺って、そいつら、貰ウ」
化け物が、一歩一歩、確実に距離を詰めてくる。
「っ、おねがいだから、にげて、おねえさん……!」
「くっそ……!」
化け物の赤黒い手が、杏咲の頭上へと伸びてくる。
――あぁ、もうだめだ。
痛みを覚悟して、杏咲は固く瞳を閉じた。
しかし――いつまで経っても化け物の手が触れてくることはない。
不思議に思った杏咲は恐る恐る瞳を開いて、化け物のいるであろう方に視線を向ける。
「――悪いが、このお嬢さんは俺の大事な客人なんでな。手出しはさせないぜ?」
月明かりに照らされて、透き通るようにきらめいて見える白銀の髪。その優しい声を耳にして、杏咲はやっと肩の力を抜くことができた。
「っ、ァ、やめ……やめ、ロ……グァァッ……!!」
伊夜彦の身体に隠れて、杏咲たちからは化け物の姿を見ることができない。しかし伊夜彦が身体を動かしたその時、そこに居たはずの化け物は忽然と姿を消していた。
「……伊夜、さん……」
「おう。……悪かったな、杏咲。怖い思いさせちまって」
杏咲の頭をそっと一撫でして笑う伊夜彦。
抱き込んでいた子どもたちを解放して立ち上がろうとした杏咲だったが、その身体はぐらりと傾く。
「おっと、大丈夫か?」
「す、すみません。安心したら、腰が抜けてしまって」
伊夜彦の腕の中で、へらりと力のない笑みを浮かべる杏咲。そんな杏咲の表情を見た伊夜彦は、その瞳を切なげに揺らがせた。しかし揺らぎはほんの一瞬のことで、そのまなざしは杏咲から子どもたちへと向けられる。
「……で。オマエらは、何か言いたいことはあるか?」
読めない表情で十愛と桜虎を見据える伊夜彦。きっと勝手に抜け出したことを怒っているのだろう。そう思った杏咲は、二人を庇うように言葉を紡ごうとする。
「ま、まってください伊夜さん! この子たちは……!」
しかし、杏咲の言葉はそこで途切れる。
「……もう、いいよ」
十愛が、杏咲の手をそっと引いたからだ。
「……おれたちがだまってそとにでようなんてかんがえたから、おねえさんにもめいわくかけちゃったし」
「そんじゃあ、杏咲に何か言わなくちゃいけないことがあるんじゃねーのか?」
伊夜彦の言葉に大きく肩を揺らした十愛と桜虎。そっと視線を交わし合ってから、二人同時に頭を下げた。
「っ、ごめんなさい……」
「わ、わるかったよ……」
今にも泣きだしてしまいそうな顔をしている十愛と、ばつの悪そうな顔で視線を逸らしている桜虎。
「……うん、いいよ。二人に怪我がなくて、本当によかった」
杏咲は眉を下げて笑いながら、二人の頭を順にそっと撫でた。普段の桜虎なら「さわるんじゃねーよ!」と払いのけていそうなものだが、今は黙ってされるがままになっている。
十愛は杏咲の返答を聞いて、泣きそうな顔で笑っている。しかし、対する桜虎は――不可解そうな表情で眉を顰めた。
「……おまえ、おひとよしってやつだろ」
「ちょっと桜虎!」
ジト目で杏咲を見ていた桜虎が漏らした一言。それを耳にした十愛は、小声ながら窘めるようにして桜虎の背中を叩いた。叩かれた桜虎は無意識での発言だったのだろう、慌てた様子で口許を両掌で抑えた。
「はっはっは、確かになぁ。杏咲は底抜けのお人好しだろうよ。何たって、見ず知らずの俺に飯まで恵んでくれたんだからなぁ」
伊夜彦は桜虎の言葉に可笑しそうに笑う。
自分ではお人好しだなんて思ったことのない杏咲だったが、友人から同じ言葉をかけられたことがあったため、もしかしたらそうなのかなぁ、なんて、得心がいったような心地にもなった。
「……お、そうだ。いいことを思いついたぞ」
突然、名案が閃いたとでも言いたげな様子で掌を叩いた伊夜彦。三人の視線が集まる中、にんまりと口許を緩めている。
「杏咲は働き口を探しているんだろう? だったらウチで働けばいいんじゃないか?」
「えっと……」
思いもよらない提案をされて、杏咲の思考は一瞬フリーズする。しかしそんな杏咲の様子に気づいているのかいないのか、伊夜彦は更に言葉を続ける。
「杏咲にはこの子たちの面倒をみてもらいたいんだ。実は人手不足で困っていてな……。杏咲は以前にも子どもの世話をする仕事をしていたんだろう? 杏咲にぴったりだと思うんだがなぁ」
「えっ、おねえさん、ここではたらくの!?」
十愛は頬をほんのりと赤く染めて、どことなくソワソワした様子で杏咲の顔を見上げている。
「どうだ? 杏咲」
「……あの、お試しのような形で働かせて頂くことってできますか?」
働き口を探していたことは事実であるし、子どもたちと関われる仕事ならむしろ喜んで働かせてほしいと頼みたいところではあったが――先ほどの十愛と桜虎の発言や化け物のこと、この料亭についてなど……不可解に感じることが多い。
迷いが生じてしまった杏咲は、咄嗟に、お試しなどという言葉を口走ってしまったのだ。
断られるだろうかと、杏咲は視線を彷徨わせる。しかしその心配は杞憂に終わる。
「あぁ、勿論! 大歓迎さ」
伊夜彦は満面の笑みで承諾してくれた。
杏咲の足元では、十愛が同じように嬉しそうな笑みを湛えている。桜虎はムスッとした顔をしているが、杏咲が働くことに関して異論はないようで黙っている。よく見れば、黒い尻尾が小さく揺れている。
「……あの、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく頼む」
伊夜彦の穏やかな微笑みを見て、杏咲はどこか懐かしいような、不思議な安心感を覚えた。
それと同時に、上手くやっていけるのかという一抹の不安も抱きながら――斯くして、杏咲の新しい就職先(仮)は決まったのであった。