第三十六話
不躾にならない程度にきょろきょろと室内を見渡していた杏咲だったが、伊夜彦が目の前のソファに腰を下ろしたことで視線を正面へと戻した。伊夜彦の手には、茶封筒と小袋のようなものが握られている。
「杏咲、渡すのが遅くなっちまったが先月分の給料だ。受け取ってくれ」
伊夜彦から手渡されたのは、厚みのある茶封筒と、上等そうな布で仕立てられている巾着袋のようなものだった。袋の方を持ち上げてみれば、じゃらりと音が鳴る。
――ん? 紙幣と小銭を分けて渡してくれたのだろうか……?
不思議そうな杏咲の表情に気付いた伊夜彦は、「あぁ」と納得したような声を漏らして説明してくれる。
「こっちは人間界で使える紙幣。んで、こっちには此処で使える小判が入ってる」
「えっと、こっちの世界では人間界のお金は使えないってことですよね?」
「あぁ。あっちとこっちとじゃ、貨幣も違うんだ。こっちで買い物をすることもあるだろうしな。貰ってくれ」
透に頼まれて何度か買い物にも行ったことがあるため、小判を手にしたこともある杏咲だったが……まさか給料として貰えるとは思っていなかったため、少し驚いてしまった。
しかしこちらの世界で働いていく以上、小判が入用になることもあるだろうと思い、杏咲は礼を告げて有り難く巾着袋と茶封筒の両方を受け取った。のだが――手にした違和感に、首を傾げてしまう。
想像していた以上に感じる封筒の厚みや巾着袋の重みが、気になってしまったのだ。
「……あの、ちなみにお給料って、いくらぐらい入ってるんですか?」
「ん? あぁ、額は――」
伊夜彦の口から飛び出た金額に、杏咲は一瞬思考を停止させたのち――堪らずに声を上げた。
「そっ……!」
「何だ、少なすぎたか?」
「ちがっ……それは多すぎですよ!」
「……そうか?」
「そうです!」
杏咲の言葉を聞いて、伊夜彦は不思議そうにきょとんとしている。此処夢見草ではこれくらいの額が当たり前のため、何故杏咲がそこまで驚いているのか分からないのだろう。
しかし杏咲からしたら、人間界で使えるお給料だけでも前の職場よりぐんと上がったというのに――妖界で使える貨幣も、それと同じだけの額が入っているというのだ。驚いてしまったのも無理はないだろう。
自身が額に見合うだけの働きをしているとも思えないし……。
伊夜彦に額を下げてもらって構わない旨を伝えようとした杏咲だったが、開きかけた口は、伊夜彦の人差し指が触れたことで閉じられる。
「まぁ多いに越したことはないだろうし、そんなに気にするな。それにもし杏咲が多いと感じているとしても、俺は杏咲がそれだけの働きをしてくれていると感じたから渡しているんだ。……俺の見る目を、杏咲は疑うっていうのか?」
「いえ、疑うなんて、そんなことはないですけど……」
「それじゃあ問題ないじゃねぇか。この話は終いだな」
にやりと笑った伊夜彦は、「これで美味いもんでも買ってきな」と杏咲の頭を軽く撫でる。
上手く丸め込まれてしまったことに杏咲は少しだけ悔しく思ったが……これ以上言えば、せっかくの厚意を無下にしてしまうだろう。
「……伊夜さん、ありがとうございます」
「おう。これからもよろしく頼む」
杏咲はもう一度お礼を言ってから、二つ分の給料を膝の上に置いた。杏咲の顔を見て満足そうに笑った伊夜彦は、どこから取り出したのか栗饅頭を片手に頬張っている。
杏咲も一つどうだと勧められたが、朝食を食べたばかりだったので断った。
もぐもぐと美味しそうに食べている姿を見ていれば、全て飲みこんだ伊夜彦はふぅと息を吐いて、おもむろに口を開いた。