第三十五話
ここ数日どんよりとした曇り空が続いていたのだが、今朝にはとうとう小雨が降り始め、朝食を食べ終えた今もしとしとと降り続いている。
もう五月下旬。そろそろ梅雨入りの時期だ。
そうなったら洗濯物は外では干せないし、室内干しでは乾くのに時間がかかってしまう。此処には乾燥機なんてないだろうし……。
そんなことを考えながら杏咲が向かっている先は、伊夜彦が待っているという執務室だ。
朝食を食べている最中、「あぁ、そういえば……」と切り出したのは透だった。つい今しがた思い出したのだろう、伊夜彦が呼んでいたと教えてくれたのだ。
手伝いを名乗り出てくれた柚留と一緒に皿洗いを終わらせてから、杏咲は一人、伊夜彦のもとに向かっていた。
普段は離れで過ごしているため、普段伊夜彦が過ごしている本殿に足を踏み入れるのは、これが二回目のことになる。
――初めてお邪魔した時には、お酒や料理でもてなしてもらったんだっけ。
あの日からまだふた月も経っていないというのに、随分遠い日のことのように思えてしまうのは――此処で過ごす日々がそれだけ色濃く、楽しいものだったからだろう。
離れから本殿へと続く廊下を進み、透に書いてもらった地図を頼りに執務室を目指す。
今日は昼間の営業はしていないらしく、夜の仕事に向けて、従業員の大半はこの時間帯休んでいるらしい。
しんと静まり返っている廊下を進んでいけば、隅の方に飾られた高そうな壺や、豪華絢爛といった言葉がぴったりの華やかな色をした扇子、金色をした虎のような置物などが目に留まる。
――あの時は言われるままに伊夜さんの後を付いて行っただけで、あまり気にしていなかったけど……やっぱり凄いところなんだなぁ、此処って。
離れとはかけ離れた雰囲気に気圧されそうになりながらも、杏咲は透の書いてくれた地図に目を落として足を進めていく。
辿り着いた先でまず杏咲の目に飛び込んできたのは――ハッと目を引くような、美しい桜だった。中華と和を織り交ぜたような、艶やかな紅色をした襖いっぱいに、金や桃色、薄水色や紫など様々な色を使い、美しい桜の模様が主張するように描かれているのだ。
暫しその美しさに見惚れていた杏咲だったが、襖の向こう側から声を掛けられたことで我に返った。
「し、失礼します」
「あぁ、入ってくれ」
一声掛けて襖に手をかければ、中に居た伊夜彦はからりと笑って入室を促した。
「杏咲。呼び出しちまって悪いな。今日はちと忙しくて、店を離れられなくてなぁ」
「いえ、それは全然大丈夫なんですけど……お仕事、忙しいんですか?」
「ん? あぁ、近々旧友が店に遊びにくるんだよ。だがまぁ、ソイツが中々に面倒な奴でな……あれを用意しろこれも用意しておけと、要求が多いんだ。全く、仕方がない奴だ」
そう言って、伊夜彦は大げさに溜息を吐いてみせた。不満そうな顔で愚痴を漏らしてはいるが――その口許は嬉しそうに緩んでいる。
その旧友とやらに会うことを楽しみにしているのだろうことが伝わってきて、杏咲は微笑んだ。
「そうなんですね。準備、頑張ってくださいね」
「おぅ、ありがとな」
杏咲の言葉に笑顔で頷いた伊夜彦は、「そこに座って待っていてくれ」と大きなソファに視線をやった。
和室にソファとは多少の違和感を抱いてしまいそうなものだが――重厚感を感じさせる黒いソファは、この部屋に見事に馴染んでいる。
言われた通りに腰掛けた杏咲が改めて室内を見渡してみれば、先程目にした襖の派手さに比べてみれば、幾分か落ち着いた様相になっている。
分厚そうな書物が敷き詰められた大きな本棚や、仕事をしていたのだろう、書類の束が積み重なったアンティーク調のデスクに、和柄の美しい模様が描かれた行燈。――見れば見るほど、和洋中が上手く調和されたお洒落な部屋だと感じる。