第二十九話
吾妻と湯希を寝かしつけて私室に向かっていた杏咲は、廊下の先――縁側で涼んでいる柚留を見つけた。風呂上がりなのだろう、肩にタオルを掛けたままの姿で、ぼうっと空を見上げている。
「――柚留くん」
迷った末、杏咲は声を掛けることにした。その横顔が……とても寂しそうに見えたからだ。
「隣、座ってもいいかな?」
「え、と……はい。どうぞ」
杏咲の登場に戸惑った様子を見せながらも、柚留は首を縦に振って返した。
隣に腰掛けた杏咲が同じように空を見上げてみれば、満天の星々が瞬いている。
「わぁ……星が綺麗だね」
「はい、綺麗ですよね」
「ふふ、こんなに綺麗な星空、あっちじゃ中々見られないよ」
「……あの。杏咲先生は、此処とは違う……人の住まう世界から来たんですよね?」
「うん、そうだよ」
「……ぼくのお父さんも、言ってました。この世界は星がきれいだなぁって。……ぼくやお母さんと一緒だから、こんなにきれいに見えるんだろうなぁって」
空を見上げながら父親のことを話す柚留の横顔は、嬉しそうで、だけどやっぱり少しだけ――寂しそうだ。
「……そっか。お父さんは、柚留くんとお母さんのことが大好きなんだね」
その言葉を聞き、柚留はゆっくりと杏咲の方に顔を向けた。髪と同じ色をした白藍の瞳が、どこか不安そうに揺らいでいる。
淡い水色にも似たその色を見つめ返し、柚留が口を開くのを待っていれば――ほんの僅かな沈黙の後、柚留は小さな声で、ポツリと囁くようにして話し始めた。
「……おれ、お父さんのこと……好きです。会えるのだって、本当はすごく嬉しいけど……おれの手で、前にお父さんのこと、傷つけたことがあって。だから……っ、やっぱりまだ、怖くて」
「……うん」
「また、お父さんのこと凍らせちゃったらどうしようって、思って。それで、お父さんに怖がられたら……今度こそ本当に嫌われたらどうしようって、思って……」
話す声が、次第に震えていく。必死に言葉を紡ぐその声が――涙で滲んでいく。
「っ、影勝も……おれがこんなだから、呆れちゃったんだと、思います。もう、おれのこと、嫌いになったかもしれない……!」
吾妻や湯希より少しだけ大きくて、でも杏咲に比べたらずっと小さな掌で自身の顔を覆った柚留は、そのまま俯き黙り込んでしまった。
「……私のお母さんとお父さんはね、私がまだ小さかった時に事故に遭って……もう会えなくなっちゃったの」
沈黙が落ちる中、杏咲は静かに語り始める。柚留はピクリと小さく身体を揺らしながらも、顔は上げずに俯いたままだ。しかし、杏咲は気にせずに話し続ける。
「でもね、私にはお婆ちゃんがいてくれたから、寂しくなかった。とっても優しくて……本当に、大好きだったんだ。……私もね、子どもの時には柚留くんたちみたいに、同い年くらいの子たちが集まる場所――学校っていうところに通ってたんだよ。そこでお家の人に見にきてもらう機会があってね。お父さんとお母さんの代わりに、いつもお婆ちゃんが来てくれてたんだ。嬉しかったなぁ」
杏咲の話を聞きながら、柚留はゆっくりと顔を上げる。その瞳は寂しさや戸惑いに揺らめきながらも、まっすぐに杏咲だけを見つめている。
「……だけどね。周りの友達がお母さんやお父さんと嬉しそうに話している姿を見て……やっぱり、ほんの少しだけ寂しくて……羨ましくもあったんだよね」
言葉通り、少しだけ寂しそうな顔をして笑う杏咲を見て、柚留は一瞬、自身の胸に広がる悲しさや恐怖心といった気持ちを忘れていた。
――そんな、悲しそうな顔をしないでほしい。いつもみたいに、笑っていてほしい。
言い様のない、初めての感情に飲みこまれた柚留は、掌を固く握りしめながら、杏咲の横顔をジッと見つめる。無意識に言葉を紡ぎそうになったけれど、杏咲の視線が自身に向けられたことで、慌ててその口を閉じた。
「好きなら好きって、伝えられる時にちゃんと、お父さんに気持ちを伝えた方がいいと思うんだ。……大丈夫だよ。柚留くんのお父さんも、それに影勝くんだって、柚留くんのことを嫌いになったりなんて絶対にしないから」
「で、でも……」
「だって……こんなに可愛くて優しい子のこと、疎ましいだなんて思うわけがないもの」
「っ、……」
杏咲の優しい笑顔に、語りかけてくれる柔らかな声に――柚留のまあるい瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。
その涙を杏咲がハンカチでそっと拭えば、柚留は耐えきれずその胸に飛び込んだ。顔を歪めて、声を抑えるようにして、柚留は静かに泣く。杏咲はひんやりとしたその背中を、そっと撫でた。
「……杏咲先生は、いつも優しくて……温かいです」
「本当? でも私には、柚留くんの方がずっと温かく感じるよ」
「で、でも、ぼく……雪女の半妖ですよ?」
「っ、ふふ、確かにそうだね。でも、雪女である柚留くんのお母さんだって、温かくて優しい方なんでしょ?」
「はい。……すごく、優しいです」
「うん。それなら、雪女だから、なんて関係ないよ。今こうして触れ合ってる柚留くんは、私にはとっても温かく感じるよ」
「……はい。ありがとうございます」
ぎゅうっと抱きしめ合ったまま、顔を見合わせた二人の顔に――同時に笑みが浮かんだ。
***
杏咲と柚留から数メートル程離れた廊下の曲がり角で、ひっそりと息をひそめる者がいた。
盗み聞きをするような形になってしまったが、故意的にしたことではない。偶然通りかかったら話し声が聞こえてきて、そこに自身の名が出てきた為、つい、足を止めてしまったのだ。
杏咲と柚留が笑い合っている姿を見て踵を返そうとすれば、背後から声が聞こえてくる。
「影勝。……後悔しているなら尚更、早いうちに柚留と話した方がいいと思うよ」
「……」
「一度伝えてしまった言葉を取り消すことなんて、出来ないんだからね。間違ったと思うのなら……そこに上書きしていくしかないんだよ」
「……」
透の言葉に返答することなく、影勝は静かにその場を立ち去った。
その背を見送った透は、談笑している杏咲と柚留を遠目に見る。その表情は、誰の目から見ても分かるほどに嬉しそうで、優しい色をしていた。