第二十八話
「透先生。お風呂、先に入らせてもらいました」
風呂から上がり、子どもたちの髪を乾かして各々の部屋へ送り届けた杏咲は、そのままの足で透の部屋を訪れていた。
「あぁ、杏咲先生か。どうぞ、入って入って。杏咲先生には色々話しておかなくちゃならないこともあるからね」
「それじゃあ……お邪魔します」
「うん、どうぞ。お風呂場からずいぶん楽しそうな声が聞こえてきたけど……あの子たちが迷惑かけたりしなかった?」
「いえ、全然。とっても楽しかったですよ」
「そっか、ならよかった。……あ。杏咲先生、まだ少し髪が濡れてるよ?」
「え? ……あ、すみません。子どもたちの髪を乾かして満足してしまって……自分の髪を乾かすのを忘れてました」
気恥ずかしそうな杏咲を見て可笑しそうに笑った透は、座布団を出してそこに座るよう促してから、杏咲の湿っている髪先にそっと手を添わせた。
「でも、風邪を引くといけないから……そうだ。何なら、俺が乾かしてあげようか?」
「……え、っと……け、結構です! あの、お気持ちだけ頂いておきますね」
「ふふ、振られちゃったな」
クスリと笑った透は、何だか楽しそうだ。揶揄われたのだと気づいた杏咲は、恨めしそうな視線を透に向けながらも、もうそれについて触れることはせずに、本題に入るよう促すことにした。……このまま話を続けても、口で透に勝てそうな気がしなかったからだ。
「えっと、それで……話って何ですか?」
「ん? あぁ、親御さんが来る日のことについて、杏咲先生にも詳細を話しておこうと思ってね。それに、伊夜さんから聞いたよ。参観日まで残ってくれるって」
「いえ、そのことなら気にしないでください。まだこれからのことだって決まってないですし、お役に立てるなら、私も嬉しいですから」
「ありがとう。正直凄く助かるよ」
透は文机の上に置いてあった一枚の紙を手に取ると、それを杏咲へと差し出す。
「当日は皆でお花見をしようと思ってるんだ。それから、親御さんたちと順に面談するって形になるかな。一応ここに一日の流れを纏めてあるから、目を通してね」
「はい、分かりました」
言われた通りに書面に目を通す杏咲を見つめていた透が、不意に問いかけた。
「……緊張する?」
「え? えっと……はい。正直、凄く緊張します」
「はは、だよね。でも皆気の良い人や妖たちだから、そこまで気を張る必要はないよ。面談も基本的には俺が対応するから、杏咲先生にはちょっとしたサポートをしてもらったり、子どもたちの面倒を見ていてもらえれば充分だからね」
「了解です。……それを聞けて、少し安心しました」
杏咲は小さく安堵の息を漏らした。子どもたちと過ごした時間がまだ短いということもあり、杏咲は少しだけ不安に思っていたのだ。
面談で普段の子どもたちの様子を伝えたり、保護者の質問にきちんと答えられるのだろうか、と。それこそ両親のどちらかは妖なのだ。妖界の知識も乏しい杏咲にとって、透が側にいてくれるというのは、それだけでとても心強い。
「うん。杏咲先生はまだ此処に来てから日も浅いし、それに……色々と複雑な問題を抱えている家庭も多いからね」
少しだけ困った風に笑う透の顔を見て、杏咲はおずおずと、ずっと気がかりに思っていたことについて尋ねてみることにした。
「あの……聞きたいことがあるんです」
「ん? 何かな」
「夕食の時、柚留くんと影勝くんの様子がおかしかったですよね? 二人共……ご家族の方と何かあったんでしょうか? さっき十愛くんたちからは、柚留くんはご両親とは仲が良いみたいだって聞いたんですけど……」
杏咲からの問いに、透はやっぱり困ったような、少しだけ悩んでいるような顔をして、その答えを口にする。
「……うん、そうだね。杏咲先生にも話しておいた方がいいかな。まず柚留だけど……ご両親と仲は良いと思うよ。二人共柚留のことを本当に大切に思っているし、柚留もご両親のことが大好きだと思う。だけどね、柚留は……怖いんだよ、きっと」
「怖い? それって……」
どういう意味なのかと、杏咲は首を傾げて尋ねる。
「柚留の母親は雪女の妖でね、父親は人間なんだ。父親は雪女であると分かった上で母親を愛し、柚留が生まれた時もとても喜んでいたらしいよ。だけどね……まだ幼い半妖の子は、力を上手く制御できない場合が多いんだ。だから柚留も力が抑えられなくて……誤って、父親を凍らせてしまったことがあるらしいんだ」
「お父さんを……」
杏咲の言葉に頷きながら、透は自身の手元に視線を落として話を続ける。
「お父さんはその時のことなんて全然気にしてないみたいだし、柚留も、今はもう力の制御だって完璧にできるはずだけど……あの子、いつも手袋をしてるでしょ? あれもね、父親を凍らせてしまった時のことが忘れられなくて、また誰かを傷つけてしまったらどうしようって……怖いんだろうね。だから自らの力を封じられるように、制御具の手袋を付けてるんだ」
「……そうだったんですね」
国杜山に遊びに行き妖に襲われた際、柚留の手が小さく震えていたことを――杏咲は思い出していた。
あの時、柚留は襲われたことだけに対して怯えていたのではない。自分が誰かを傷つけてしまうことに対して恐れを抱いていたのだ。だから、触れた杏咲の身を案じるようなことを言っていたのだと――杏咲は漸く合点がいった。
「あの、それじゃあ影勝くんは? 柚留くんは、影勝くんのお父さんのこともよく知っているような口ぶりで話してましたけど……二人共、家族ぐるみの仲だったりするんですか?」
「うん、二人は幼馴染なんだよ。だからお互いの両親のこともよく知ってるんだ」
「幼馴染……そうだったんですね」
影勝は誰に対してもツンケンした態度をとっているし、他者を寄せ付けない雰囲気を纏っているが――柚留に接する時の雰囲気だけはどこか周りと違う気がすると、杏咲は前々から感じていたのだ。幼馴染だという言葉がしっくりきて、なるほどと深く頷いた。
「影勝の母親はね、もう亡くなっているんだ。父親は健在なんだけど……うーん、何て言えばいいかなぁ……凄く浮世離れしていて破天荒で……とにかく、変わった妖なんだよね。で、影勝とはどうもそりが合わないみたいで、影勝の方が一方的に父親を嫌ってるって感じかな。あそこの家庭も、色々と複雑だからね」
――浮世離れしていて破天荒とは、一体どんな人……否、妖なのだろうか。
気になった杏咲がもう少し詳しい話を聞こうと口を開くよりも早く、透の部屋の障子戸が、スパーンと気持ちのいい音を立てて開かれた。
「杏咲ちゃん、やっっとみつけたで! なぁなぁ、きょうもえほんよんでやぁ~」
視線を向ければ、そこに立っていたのは吾妻だった。後ろには吾妻と同室の湯希もいて、眠たそうに眼を擦っている。
「……杏咲先生。二人の寝かしつけ、お願いしてもいいかな?」
「はい。行ってきますね」
透は、やれやれ、と力なく笑っている。
そんな透の表情を見てクスリと笑いながら頷いた杏咲の手を、近づいてきた吾妻がぎゅっと握りしめた。
「杏咲ちゃんいこ! きょうはまた、ももたろーさんよんでや!」
「……おれは、花さかじいさんのはなし、が……いい……」
「そうだね。それじゃあ二つとも、順番に読もうか」
吾妻とは繋いでいない反対の手で湯希の手をそっと握れば、控えめながらもすぐにぎゅっと握り返してくれる。感じる小さな温もりに嬉しくなり、杏咲は顔をほころばせた。
こうして、結局影勝の父親についての話は聞けずじまいのままに、杏咲は透の部屋を後にしたのだった。