第二十三話
柔らかな風が、桃色に色づいた木々を優しくゆする。春独特の生温かい風が、桜の匂いをはらんで杏咲のもとまで届いてきた。
杏咲がお試しで働いている此処、“妖花街夢見草”は、その名の通り美しく立派な桜の木に囲まれており、それは離れの方にまで及んでいる。夢見草とは、桜の別称を意味するのだ。
庭先で洗濯物を干していた杏咲は、その手を止めて顔を持ち上げた。
風に乗って、ひらりひらりと花弁が舞い降りてくる。
暫くぼうっと桜の木を見つめていた杏咲だったが、突然視界が暗闇に包まれた。――どうやら、誰かに目元を覆い隠されてしまったらしい。
「わぁっ、ど、どちら様ですか……!?」
「さ~て、誰だと思う?」
――あ、この声は。
「もしかして……伊夜さん、ですか?」
「おぉ、正解だ」
目元に触れていた温もりが離れ、視界に光が差し込んでくる。そして目の前には、愉しげに笑う伊夜彦の姿があった。
「……何かあったのか?」
杏咲の顔を見るや否や、伊夜彦は突拍子もなくそんな言葉を投げかける。
杏咲は無意識に小首を傾げた。
「え、っと……特に何もないですよ?」
「そうか? いや……何だか、いつもより元気がないように思えてな。まぁ、俺の気のせいならいいんだが」
杏咲からの返答を聞いて、伊夜彦はからりと笑う。そんな伊夜彦を見上げながら、杏咲は思った。
――やっぱり伊夜さんは、不思議な人……ううん、妖だと思う。何だか心の内を見透かされているような気がして、少しだけ気恥ずかしくて、だけどそれも嫌じゃなくて……むしろ、嬉しく感じてしまって。
「あの……実は、少し悩んでいることがあって。でも、これは自分で考えて決めないといけないことなので……大丈夫です!」
「……そうかい。なら、俺はそれを応援してやらないとなぁ。頑張れよ」
「はい! ……伊夜さん、心配してくれてありがとうございます」
陽気な春空には似合わない落ち込んだ顔をしていた杏咲だったが、今は柔らかな笑みが浮かんでいる。伊夜彦は身を屈め、そんな杏咲の顔を真正面からまじまじと見つめた。
「お、やっといつもの表情に戻ったな。……うん、やっぱり杏咲は、笑ってる表情が一等可愛いな」
ひどく優しげな表情で、声色で、言われ慣れていない甘い言葉を掛けられた杏咲は、数秒沈黙した後、その顔を赤く染めて勢いよく俯いた。
――い、今のは別に、私が可愛いって言われたわけじゃなくて……そう! 笑顔を、笑ってる顔を褒めてもらっただけであって……!
恥ずかしさのあまり混乱している様子の杏咲を見下ろし、ふっと表情をほころばせた伊夜彦は、自身の胸元下にある小さな頭に、ぽんぽんと優しく手を下ろした。
「実はな、ちょうど杏咲のことを探していたんだ。話したいことがあってな」
「は、話、ですか?」
「あぁ。まぁ座って話そう」
話を変えてくれた伊夜彦に内心でほっと安堵の息を漏らしながら、杏咲は伊夜彦と並んで縁側に腰を下ろした。
「杏咲が此処で働き始めて、もうすぐひと月が経つだろう? 試用期間はあと一週間と少しってところになるが……どうだ? 此処での生活は」
「そうですね……透先生も優しくて、子どもたちも皆可愛くて……本当に、毎日が楽しいです。だけど……」
「迷ってるんだな?」
「……はい」
――つい数分前に自分で考えて決めると言ったばかりなのに。やっぱり伊夜彦には、何でもお見通しなのかもしれない。
結局悩みを打ち明けることになってしまって、杏咲は何とも言えない表情を浮かべる。
しかし伊夜彦は、杏咲が自身に対して思う不甲斐ないといった感情にさえも気づいているらしい。微笑みながら、穏やかなまなざしで杏咲を見つめる。
「なぁに、迷い悩むことは悪いことじゃないさ。中途半端に投げ出したり適当に決めたりするくらいなら、納得のいく答えが見つかるまでもがいた方がいい。それこそ、一年でも十年でもな」
「……でも、そんなに悩んでたら、私お婆ちゃんになっちゃいますよ」
「あっはっは、確かになぁ。だが、それもいいじゃないか。俺は構わないぞ。そうしたら、爺婆同士で毎日茶でも飲んでのんびりできるな」
――伊夜さんってば、どこまで本気で言ってるんだろう。
伊夜彦は、心底可笑しそうに、楽しそうに笑っている。その声音や表情からは、嫌味や揶揄いといった色は感じられないが……一体どこまで真面目に言っていることなのか、杏咲には皆目見当もつかない。
「まぁ、まだ時間はあるんだ。杏咲にとって後悔のないよう、存分に悩めばいい。杏咲が辞めちまったらアイツらも寂しがるだろうが……どんな決断をしたとしても、皆杏咲の気持ちを尊重してくれるさ。もちろん、俺もな。……まぁ、杏咲にこのまま残ってもらえたら嬉しいってのは事実だがなぁ」
――あ、神社で出会った時と同じだ。あたたかな声に、優しい瞳。相手を気遣うような、労うような優しさが伝わってくる。……どうして伊夜さんは、いとも簡単に弱った心を掬い上げてくれるんだろう。
「……はい。納得のいく答えが見つかったら、伊夜さんに一番に報告しに行きますね」
「おっ、待ってるぞ」
風に乗ってやってきた桜の花弁が、ひらり、杏咲の前髪に張り付いた。それをすらりとした指先で摘まみながら、伊夜彦は嬉しそうに笑う。
――そうして二人は、暫くの間、お喋りを楽しんだ。
青空の下、その場には穏やかな空気が広がっている。
「あぁ、忘れるところだった。実は、杏咲に頼みたいことがあってな」
「頼みたいこと、ですか?」
朝食の時間、吾妻や影勝が苦手なものも頑張って食べていたという話を杏咲から聞いて、どんな技を使ったんだと感心していた伊夜彦だったが、突然、何かを思い出したかのように、ぽんと手を打った。
「あぁ。もし此処で働くのを辞めるって決断をした場合、働く期間を少しばかし伸ばしてもらうことは出来るかい?」
「えっと、それは全然かまわないですけど……何かあるんですか?」
「あぁ。実は五月の二週目……杏咲たちの居る世界ではごーるでんうぃーくっていうのがあるだろう? それが明けて直ぐあたりに、子どもたちの親御さんが此処に来るんだよ」
「親御さんが?」
――それって、保育参観みたいなものだろうか?
前の職場での保育参観を思い出し、退職してからまだそこまで月日も経っていないというのに、杏咲はとても懐かしいような気持ちになった。
「あぁ。子どもたちが元気にやってるか、様子を見にくるんだ。透には日頃の様子なんかを伝えてもらったりするんだが……前回も透一人じゃあちと大変そうだったからな。杏咲にも手伝ってもらえたら助かる」
「はい、もちろん大丈夫です。お手伝いさせてください!」
「そうかい。ありがとな」
此処を辞めるにしても、その後のことなどまだ全く考えていなかったため、杏咲は二つ返事で了承した。伊夜彦や透たちの力になれるなら、嬉しいとも思ったからだ。
その後はまた、伊夜彦と少しばかり雑談をしてから、本殿の方に戻っていく伊夜彦の背を見送った。杏咲は庭先に置きっぱなしにしていた空になった洗濯籠を持って、離れに戻る。
――皆の親御さんたち、か。会ってお話できるのが楽しみだな。
そんな風に思いを馳せていたのだが、この保育参観の件でまた一波乱起きることになるだなんて――この時の杏咲は、知る由もなかったのである。