第二十一話
全身を突き刺すような突風が消えた。宙に浮いていた身体が、地面に投げ出される。閉じていた瞳をそっと開けば、そこは見慣れない場所だった。
――洞窟、だろうか?
上体を起こし周囲を窺うようにして見渡した後、杏咲は視線を落とした。腕の中には困惑した様子の柚留がいて、右隣には地面に横たわったままの桜虎もいる。
「っ、柚留くん、桜虎くん、大丈夫?」
声を掛ければ、柚留はコクリと頷き、桜虎は呻き声を上げながら身体を起こす。二人共しっかり意識はあるようだ。
――此処はどこなのか。ほんの一瞬の合間に、何が起こったのか。まずは状況を把握しないと。
杏咲が考え込んでいれば、突然、地鳴りのような音が聞こえてきた。
音の聞こえる方を見れば、そこに居たのは――大きな体躯に、頭上には二本の角が生えた異形の存在――妖だ。おどろおどろしい雰囲気を纏った妖が、ゆっくりとこちらに近づいてきている。
「あぁ”~? オマエ……ニンゲンかぁ? 何でニンゲンの女がいんだぁ? オレは半妖の子どもを攫ったつもりだったんだが……まぁ、いいかぁ~」
ぱんぱんに膨れ上がった真っ赤な腹をぼりぼりと掻いた鬼のような容貌をした妖は、杏咲たちを順に見ながら一人で納得したように頷いている。
「あなたが私たちを攫ったんですね? 狙いは……この子たちですか?」
震える身体をぐっと押さえつけながら、杏咲は鬼の顔を睨み付けた。
「あ~? そうに決まってんだろ~? オレはなぁ、向こうの山の方から来たんだぁ。此処の近くに半妖の子がいるってぇ風の噂で聞いたんだが……本当だったんだなぁ~」
またぼりぼりと腹を掻きむしりながら、鬼はニタリと、それは嬉しそうに笑っている。
――鬼が、足を一歩踏み出した。また、地鳴りのような大きな足音が鳴り響く。
杏咲は柚留と桜虎を抱きすくめながら、視線は決して逸らさぬように鬼の顔を見据える。
どうするべきかと打開策を必死に考えていれば――この数週間ですっかり聞き慣れた声が、洞窟の中で反響するようにして響き渡った。
「お~い、オマエら無事か? ったく、なんでこんな日に妖と出くわしちまうのかねぇ」
大きな溜め息を落として洞窟の入り口に立っていたのは、火虎だった。
背中には大きな黒い翼が生えていて、片手には錫杖を握っている。錫杖とは、よくお坊さんが手にしている、シャンシャンと音が鳴る杖のようなものだ。
「げへっ、半妖の子がもう一匹~! 今夜はごちそうじゃね~かぁ」
涎を垂らした赤鬼は、ドスンドスンと大きな巨体を揺らしながら、火虎に近づいていく。鋭く尖った長い爪が、火虎の頭上へと振り下ろされた。
――しかし、その腕が届く寸前。火虎は体制を低くして鬼の手から逃れ、そのまま手にしていた錫杖を振りかぶり、鬼の脇腹目掛けて思いきり打ち込んだ。
「グハッ、ぅあぁぁ……」
鬼は呻き声を上げて、その場に蹲る。
「もう一発~っと、おりゃっ!」
火虎は再度、鬼の脳天目掛けて錫杖を振りかざす。呻いていた鬼はその一発で気を失ってしまったようだ。肥え太った見事な巨体が、大きな音を立てて地面に倒れる。
「す、凄い……」
あっという間の出来事に瞬きすることも忘れ、杏咲は呆然と見入ってしまっていた。
ポツリと漏らした杏咲の感嘆の声に「ま、図体がデカいだけの雑魚妖怪だしな」と返した火虎は、満更でもないような顔をして、錫杖をクルリと回してみせる。
「に、兄ちゃん……!」
そして、杏咲の腕の中から抜け出して顔を出した桜虎が、まあるい瞳を更に大きく見開いて、小さな声で呟いた。
――ん? 兄ちゃん?
桜虎の視線の先を辿れば、そこに居るのは依然として火虎だけだ。
ということは……。
「えっ、もしかして、桜虎くんと火虎くんって兄弟なの?」
「あれ、言ってなかったか? 桜虎はオレの弟なんだよ」
ニカッと笑った火虎は、桜虎の頭をガシガシと撫でる。
そんな火虎の手から逃れようと小さく頭を振った桜虎は、「やめろよ」と抵抗している。
けれど、本気で嫌がっているわけではないのだろう。結局は火虎の手を受け入れ、されるがままに撫でられている。
「そうだったんだね。全然気づかなかったよ」
「まぁ、桜虎とは母親が違うからさ。異母兄弟ってやつなんだけどな」
何とでもないといった風にサラリと口にした火虎は、母親が違うという事実を杏咲に教えてくれた。少しだけ驚いた杏咲に対して、けれど火虎も桜虎も平然とした様子で、片親が違うことを気にしているような素振りは見られない。
「皆待ってるし、早く戻ろうぜ」
火虎は特に杏咲からの返答を求めるわけでもなく、自身の中ですでにこの話題を終わらせたようだ。この場に背を向けて、洞窟の出入り口に向かって歩いていく。
火虎の発言に、ほんの少し心がモヤついた杏咲だったが――今は一刻も早く透たちのもとに戻ることが先決だと思い、座りこんだままの桜虎と柚留に声を掛ける。
「二人共、大丈夫? 歩けそうかな? 無理そうだったら、私がおぶって行くけど……」
「っ、オ、オレはこれくらいなんともね~からな! あるけるにきまってんだろ!」
杏咲に心配そうなまなざしを向けられて、自身の胸がほわりと温かくなるのを感じながらも、慌てた様子で立ち上がった桜虎は一人で歩き始める。
三歳の子どもだって、男の子であることには変わりない。一丁前にプライドだってあるのだ。おんぶされて皆のもとに戻ったら、吾妻たちに馬鹿にされるかもしれない。それに……。
桜虎は、杏咲と十愛と共にお使いに行って財布を盗まれそうになった時、杏咲に言った言葉を思い出していた。
――まもってやるって、やくそくしたのに。なんにもできなかった。
恐怖で固まることしかできなかった。また、守られてしまった。……カッコわりぃ。
杏咲に守ってもらって、心配してもらえて嬉しい気持ちと、それ以上に悔しい気持ちで胸がいっぱいになった桜虎は――目の前を歩く兄の背中を目に焼き付けながら、もっと強くなりたいと、強くなってやると、小さな決意を燃やしていた。
――桜虎くん、先に行っちゃった。
火虎の背を追いかけて先に行ってしまった桜虎の背中を、杏咲は目で追いかける。
ふらついている様子もないし、どこか怪我をしていることもなさそうだと判断してほっと胸を撫で下ろしながら、次いで柚留へと視線を向けた。
「柚留くんは大丈夫かな? ……柚留くん?」
杏咲の腕の中で身動ぎすることなく固まっていた柚留は、名を呼ばれると、小さく肩を震わせた。かと思えば、慌てて杏咲から距離をとって、自身の手元に視線を落とした。
柚留は常に白い手袋をはめているのだが、地面に手をついた際のものだろう。少し土が付いて、汚れてしまっている。
「だ、大丈夫、です」
「そっか、なら良かった」
「……あ、あの、杏咲先生は……何ともないですか? 身体とか、寒かったり……」
「え、寒い? ううん、全然大丈夫だよ」
「そう、ですか……。なら良かったです」
杏咲の返答に安堵した様子で微笑んだ柚留は、「ぼくたちも行きましょう」とその場から立ち上がった。
柚留の手が小さく震えていることに気づいた杏咲は声を掛けようかと迷ったが――柚留の触れてほしくなさそうな雰囲気を察し、「……うん、行こうか」と笑って返す。
無遠慮に他者の心に触れる行為は、それがどれだけ相手のことを思ってのことだとしても――時として、返って相手を傷つけてしまうこともあるのだと。
杏咲はそれを、よく知っていたから。
過去の苦い経験を思い出して胸がずきりと痛むのを感じながら、その痛みには気づかない振りをして、杏咲も柚留の後に続いたのだった。