第二十話
夢見草を出て、花車に揺られること数十分。
花車はゆっくりと動きを止めた。国杜山の麓に到着したようだ。
花車から降りれば、そこは見渡す限り一面の花畑だった。
芝桜に蒲公英、シロツメクサといったよく知る野花から、見たことのない種類のものまで、色とりどりの花が咲き誇っている。
少し離れた場所には子どもたちの言っていた通り小川のような場所もあり、そこからまた少し離れた所には、木製の遊具が設置されている。
「凄いでしょ? あそこにある遊具は、つい数か月前に伊夜さんが、子どもたちのためにってわざわざ設置したんだ」
伊夜彦のことを話す透は、どこか嬉しそうで、誇らしげだ。
「おっしゃぁ! いくぞ~!」
「あ、桜虎まってよ!」
「皆! ちょ~っと待った!」
我先にと走り出そうとする桜虎に、後を追いかけようとする十愛。
そこに待ったをかけたのは、透だった。
「遊ぶ前に約束! 遊ぶのは、この花畑と遊具がある場所と、あそこの小川の周りのみ。俺か杏咲先生が見える範囲だけで遊ぶこと。勝手に遠くへは行かないこと」
場所を指さしながら、特に年少組に言い聞かせるようにして、きっぱりとした口調で約束事を口にする透。
「約束だからね。皆分かった?」
「「は~い!」」
透の言葉に、ぱらぱらと元気の良い返事が返ってくる。
「……よし! それじゃあ遊んでいいよ」
その言葉を合図に、子どもたちは一斉に動き出した。
影勝や玲乙などのドライ組や無気力な湯希も、元気っ子たちに引っ張られ、為す術なく遊びに強制参加させられている。
「なぁなぁ杏咲ちゃん、いっしょにおさかなつかまえよ!」
走っていく子どもたちの後ろ姿をのんびり追いかけながら見守っていれば、そこに戻ってきた吾妻は、杏咲の手を握りしめて、小川の方まで引っ張っていく。
ここの小川は水深二十センチ程度しかないらしい。これなら子どもたちが溺れる心配もないだろう。しかし水場は何があるか分からないため、杏咲か透のどちらかは小川で遊ぶ子どもたちに目を配ることにしようと、事前に道中で話し合っていた。
後ろに振り返れば、透と目が合った。二人は目配せし合う。
――私は小川の方を見てますね。
――了解。俺は遊具で遊ぶ子どもたちを見てるから。
言葉にせずとも意思疎通し合った二人は、笑顔で頷き合った。
……この感じ、懐かしいなぁ。
杏咲は前の職場でのことを思い出した。
働き始めて一年目の時。同じクラスを受け持っていたもう一人の先輩保育士とは、よく目で会話をしていた。
――私、この子たち連れてお散歩に行ってくるから。
――了解です。園長に人数は伝えておきますね。
数十人の子どもたちでしっちゃかめっちゃかな保育室。泣いて騒いで落ち着かない子がいると、それは周りにも伝染してしまう。
そのため、室内遊びをしている子どもたちが遊びこめるよう、落ち着かない子は気分転換にお散歩に行ったりしていた。
こんな風にして、その時の子どもたちの状況を見ながら活動を決め、分担して目を配っていたのだ。
しかしお散歩に行くことが室内遊びチームにバレれば、「ぼくもおさんぽにいきたい!」と言い出す子どもが出てきてしまうもので……一人の保育士では見切れない人数の子どもたちが散歩に行くことになってしまう。
すると、安全確保のため、保育士二人で散歩に行かなくてはならなくなる。そうなれば、外に行きたくない、室内で遊びこんでいた子どもたちの遊びを中断させて、皆で散歩に行くことになってしまうのだ。
だから、子どもたちが各々楽しめるよう、バレないように配慮しながら――声を出すことなく目で会話していたというわけだ。信頼関係ができている保育士同士だからこそできる技だろう。
受け持っていた子どもたちや先輩保育士の顔を思い浮かべた杏咲は、胸に懐かしい気持ちが広がるのを感じた。けれど感傷に浸る暇があるわけもなく、元気いっぱいの吾妻の声で、思考は直ぐに現実世界へと引き戻される。
「杏咲ちゃん、はよいこ!」
「……うん! 行こっか」
着物と一緒に贈ってもらった下駄を脱いで芝生の上に揃えて置き、小池の中にそっと足を入れる。水は透き通っていて、ひんやりと心地いい。
「此処に魚なんているのかな?」
「いる! オレはなぁ、まえにこ~んなでっかいさかなをつかまえたんだからな!」
杏咲の漏らした独り言を耳にした桜虎は、両手をいっぱいに広げて、どうだ凄いだろうと言わんばかりの顔でフンと鼻を鳴らす。
「へぇ、桜虎くん凄いね!」
「へへ、まぁな」
鼻下を指でこすりながら、桜虎は得意げな顔をする。
その様子を見ていた火虎は、ニヤリと笑いながら、揶揄い口調で桜虎に声を掛ける。
「そんなにおっきかったかぁ~?」
「お、おっきかっただろ! ……た、たぶん!」
「……ふはっ。まぁ確かに、あん時は桜虎が捕まえた魚が一番おっきかったよな」
火虎の言葉にどもって返した桜虎の様子から察するに、魚の大きさには多少の誇張表現があったようだ。しかし、続けられた火虎の言葉にぱっと瞳を輝かせた桜虎は、うんうん頷きながら笑顔を見せる。
「ふふ、そっか。じゃあ今日も、おっきいお魚捕まえようね」
「おう!」
「きょうはおれが、いっちばんおおきいおさかなつかまえるんやからな!」
杏咲の言葉に、桜虎は気合の入った声で返した。吾妻も意気込んだ様子で、腕を水の中に突っ込んでいる。
桜虎と吾妻の着物の袖を捲って襷掛けにしてあげた杏咲は、自身の着物の裾も邪魔にならないようにと襷掛けにした。
ちなみに透には、この着物は汚してもらっても大丈夫だと言われている。子どもたちとの外遊びでは、汚れはつきものだからだ。
そうして小川の中を歩きながら魚を探していた杏咲たちのもとに、柚留がやってきた。頭の上には可愛らしい花冠がのっている。
「わ、可愛い花冠! 柚留くんが作ったの?」
「えっと、はい。十愛に教えてもらって作ったんです。で、十愛が杏咲先生にもあげたいから、呼んできてって」
花畑の方に目を向ければ、十愛が大きく手を振っている。
次いで透の姿を探せば、今も遊具のある所にいるみたいだ。ブランコに乗る湯希の背中をそっと押してあげている。
――うーん、子どもたちだけ残してこの場を離れるのもなぁ。
どうしようかと悩んでいる杏咲に、少し離れた場所で魚を探していた火虎はいち早く気付いた様子だ。
「ここはオレが見てるから、行ってこいよ」
火虎は笑いながら、十愛がいる方に視線を送る。
「アイツ、すっげー楽しみにしてるみたいだし」
「……うん、ありがとう火虎くん。それじゃあすぐに戻るから、お願いします」
火虎の気遣いを受け取りお礼を言った杏咲は、火虎たちに背を向け小川から上がろうとした。――その時だった。
突然、大きな風が吹き荒れた。
杏咲は咄嗟に目を閉じた。そして、そっと薄目を開ければ……目の前にいた柚留のもとに、大きな何かが迫っているのが分かる。
――考えるよりも先に、身体が動いていた。
柚留へと手を伸ばした杏咲は、その小さな身体を抱きかかえる。それと同時に――自身の身体がふわりと持ち上げられる、感覚。
「っ、なっ! ――‼」
誰かの大きな叫び声が聞こえる。――火虎だろうか?
けれどその声は、再び吹き荒れた強い風の音で、掻き消されてしまった。