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妖花街にて保育士をすることになりまして。  作者: 小花衣いろは
第一章 おいでませ、妖花街
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第二話



「――さ、杏咲。もう目を開けていいぞ」


 何か柔らかいもので耳を塞がれているかのようにぼやけて聞こえていた音が、少しずつ鮮明に聞こえるようになってきた。男の声もクリアに聞こえる。杏咲は恐る恐る目を開けた。


 ――さっきの光は何だったんですか?


 男に真っ先に聞こうと思っていたことだ。しかし飛び込んできた景色に目を奪われた杏咲の脳内からは、そんな疑問、一瞬で消え去ってしまった。


「……え? 何処、ですか、ここ……」


 自分は珠玉の橋の上にいたはずだ。足元を見てから左右に視線を移して、橋の朱色を確かに確認した杏咲。ゆっくりと顔を上げて前を向いた。


 ――そこに広がるのは、京都旅行で映画村に行った時に見た風景に近しい、古い町並み。皆着物を着ていて、江戸時代にでもタイムスリップしてしまったのではないかと、そう錯覚してしまいそうになる。


「さぁ、俺の店はここからすぐなんだ」


 杏咲の呟きが聞こえなかったのか、男は疑問に答えることなくゆるりと笑いながら足を進めてしまう。


「ま、待ってください!」


 こんな訳も分からない状態で置いて行かれても困る。現状頼れる人が目の前の男しかいない杏咲は、慌てて後を追いかけた。


「あの店の団子は一等美味くてな。今日はちと混んでいるようだし、次の機会にでも杏咲にご馳走するとしよう」

「は、はぁ」


 追いついた杏咲を横目にとらえた男は、通り過ぎる店を指さしながらからりと笑う。男の言う店に目を向ければ、確かに店の前は人でいっぱいだった。


 それにしても――今日はお祭りでもやっているのだろうか。猫耳のようなものを付けた若者から羽のようなものを背中にくっつけたお爺さんまで、様々な仮装をした人の姿が見られる。


「今日はお祭りでもやっているんですか?」


 杏咲は男に問いかけた。今度は男の耳にもはっきりと聞こえたようで、町の人々に向いていた視線がゆるりと杏咲に降り注いだ。


「いや、ここはいつもこんな感じでな。賑やかでいいだろう?」


 人々の活気で満ちている商店通りを抜けて、石畳の緩やかな上り坂を進んで行く。

 茅葺き屋根から立派な瓦屋根の家まで、昔ながらの風情を感じる民家やこじんまりとした小間物屋などが軒を連ねているこの道は、先程の商店通りとは一変して穏やかな静けさで満ちている。


「見えてきた。あそこが俺の店だ」

「わ、凄い……大きなお店なんですね」


 豪華絢爛という言葉がぴったりの日本家屋。周りは小川で囲まれているようで、店の正面には小さな橋が架けられている。木々の緑と桃色に咲き誇る花々が、建物と美しく調和している。

 杏咲は思わず感嘆の息を漏らした。


 男の後に続いて珠玉の橋に似た木板の上を進んで行けば、出入り口の方から誰かが歩いてくるのが見える。町の人たちと同じような着物に身を包んでいる男だ。


「あれ、伊夜さん。おかえりなさい」

「おぅ、透か。今帰った」

「伊夜さんってば昨日からどこに行ってたの?」

「あぁ、ちと行き倒れていてな」

「ぷっ、何それ。詳しく聞きたいところだけど、これから買い出しに行かないとでさ。また今度、ゆっくり聞かせてよ」


 現れたのは、白地の着物に黒い羽織をはおった細身の男。

 陽の光を浴びて、焦げ茶色の髪が透き通っているように見える。垂れ目で鼻筋はすっと通っていて、整った顔立ちの美人だ。よく見れば、両耳朶にそれぞれ二つずつピアスを付けている。


「あれ? その人は……お客さん?」


 男の視線が、杏咲に向けられた。

 杏咲は思わず、身体を小さく震わせる。無意識に背筋が伸びた。


「あの、私は……」

「ああ、俺の命の恩人でな。礼をしたくて連れてきたんだ」


 杏咲の代わりに、伊夜と呼ばれていた男が答えた。

 そこで漸く、まだ男の名前を聞いていなかったことに気付いた。そんな杏咲の視線に気付いた男は、少しだけ申し訳なさそうな顔で自己紹介を始める。


「あぁ、そういえばまだ名乗っていなかったか。俺は伊夜彦(いよひこ)という。皆からは伊夜さんと呼ばれることが多いから、杏咲もそう呼んでくれ」

「伊夜さん、ですね。わかりました」


 杏咲から名を呼ばれて、伊夜彦は満足そうに笑う。


「へぇ、何だかおもしろそ……いや、素敵な縁があったんだね。それじゃあ、ちゃんともてなして差し上げないと」


 二人のやりとりを見ていた男は、にこにこと笑いながら伊夜彦の肩をそっと叩いた。砂埃が付いて汚れていたのを払ってあげたらしい。気の利く男のようだ。


「ああ。そのつもりだ」

「うん。じゃあ、俺は行くから。ゆっくりしていってくださいね」


 最後に杏咲に会釈をして、男は町の方へ行ってしまった。

 先程買い出しに行くと言っていたし、この店の従業員なのだろう。爽やかな雰囲気ながら、どこか含みを持った笑い方をする人だと、杏咲は感じた。


「よし、杏咲。行こうか」


 伊夜彦の声に頷いて、杏咲はゆっくりと足を踏み出した。――此処まできてしまったのだ。

 もう、戻るという選択肢はない。



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