第十八話
「杏咲先生、折角だし着替えておいでよ。その間にお弁当は完成させておくからさ。……あ、着付けの仕方は分かる?」
「浴衣ならお祭りの時に自分で着たことがあるので……多分、大丈夫だと思います」
「そっか。着物も浴衣も着付けの手順は基本的に同じだけど……否、でも一応教えておこうかな」
正直、和服を着ること自体が久しぶりで着付けに多少の不安があったため、杏咲は透の好意に甘えることにした。透に一旦退室してもらい、その間に肌着を着て長襦袢を羽織る。
ここまで出来たら透の出番だ。はだけている前が見えないよう、透には後ろに回ってもらい、まずは長襦袢を着付けてもらう。それからやっと着物を羽織る。
今回は、透に選んで貰った杏色の着物を着ることにした。
想像以上に近い距離に少しだけドキドキしながら、杏咲は平静を装って透の説明に耳を傾ける。
「ここをこうして、腰紐で結んで。で、お端折を整えて――はい、完成」
食後ということも相俟って、締められた帯でお腹が少しだけ苦しい。しかし、着物を着た時に感じる背筋がピンと伸びる感覚は、気持ちまで引き締めてくれるような心地がして気分がいい。
あっという間に着付けてくれた透の手際の良さに感心しながら、杏咲は頭を下げてお礼を伝える。
「着付けまでしてもらって、ありがとうございます」
「いえいえ。よかったら髪も纏めておいでよ。着物ならアップにした方が可愛いと思うし。俺は先に子どもたちの所に戻ってるから」
「はい。ありがとうございます」
透と別れて私室に戻った杏咲は、伊夜彦が用意してくれた鏡台の前に座り、後ろ髪を一つに緩く纏めておだんごにした。最後に色付きリップを付け直して台所に向かえば、丁度弁当が出来上がったようだ。透が風呂敷で重箱を包んでいる。
「透先生、ありがとうございました」
「いえいえ。杏咲先生、着物よく似合ってるよ。髪も可愛いね」
直球で褒められて照れながらももう一度お礼の言葉を伝えていれば、杏咲が戻ってきたことに気づいた子どもたちが集まってきた。
「あっ、杏咲ちゃんきものきてる! めっちゃかわええやん‼」
「ありがとう吾妻くん」
「このきもの、透がくれたの?」
「うん、そうだよ」
「へぇ、すごいかわいいね。あ、かみもかわいい!」
お洒落好きの十愛は着物や髪型に興味津々といった様子で、杏咲の周りをぐるぐると回っている。杏咲は少しだけ逡巡した後、膝を曲げて十愛と目を合わせる。
「よかったら、十愛くんの髪もやろうか?」
「え、いいの?」
「うん、勿論」
嬉しそうに笑う十愛の表情に、声を掛けて良かったと杏咲も嬉しくなった。男の子だし、髪をいじられることに抵抗があるのではと懸念していたからだ。
透に一言断って十愛と一緒に私室に向かった杏咲は、十愛の後ろに回って髪を丁寧に櫛で梳かした。日頃から丹念にお手入れしているのだろう。艶やかな黒髪は、絹のように滑らかな手触りだ。
「十愛くん、どんな髪型にする?」
「ん~っとね……かわいいやつ!」
「ふふ、可愛いやつだね。了解です」
十愛の髪は襟足が少し長くなっているが全体的にはそこまで長さがないため、悩んだ末、前髪を編み込むことにした。自宅から持ってきていたピンで固定して崩れないようにヘアスプレーを吹きかければ、完成だ。
「どうかな?」
「っ、かわいい……!」
鏡に映った自身を見つめる十愛の瞳は、きらきらと輝いている。眩しい笑みを湛えたまま「みんなにもみせてくるね!」と部屋を出て行く。
その背を見送って櫛やスプレーを片付けていれば、数秒も経たないうちに、トタトタと小さな足音を響かせた十愛が杏咲のもとまで戻ってきた。
「十愛くん、どうかした?」
「そ、その……」
「ん?」
「か……かわいくしてくれて……ありがと」
恥ずかしそうにお礼を言った十愛はすぐに背を向けてしまったため、その表情は一瞬しか見られなかったが――その破壊力たるや、凄まじいもので。
十愛が行ってしまった後も、杏咲は暫くの間、胸にじわじわと広がるときめきを落ち着かせることに必死になっていた。