第百三十五話
「――杏咲、着いたぞ」
杏咲は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
「私……本当に戻ってきたんですね」
昔ながらの風情が感じられる町並み。着物姿の通行人たちは、よく見れば獣耳が生えていたり、背中から羽を生やしていたり身体中に目玉が付いていたりと、異形の姿をしている者もいる。
――懐かしい風景。懐かしい匂い。肌を撫でる風さえもが、人間界のものとはどこか違うように思える。
離れていた時間は僅か半年ほどだというのに、ひどくノスタルジックな気分になりながら、杏咲は伊夜彦の後に続いて街中を歩く。
子どもたちと一緒によくお使いに行っていた店や、その帰りに立ち寄った甘味処などを目に留めては、杏咲は懐かしそうに、嬉しそうに目を細める。
そんな杏咲の表情に気づいた伊夜彦は、優しいまなざしを杏咲に向けながら、わざとゆったりとした歩幅で歩いた。
そして、普段よりも時間をかけて街中を歩いた二人は、とうとう目的地の“妖花街 夢見草”に到着した。
「桜、満開ですね。ちょうど一年前に、初めて此処に来た日のことを思い出します」
「そう言えば、杏咲が働き始めたのはちょうどこの時期だったな」
小さく息を吸い込めば、周りを取り囲むように咲き誇っている桜の甘やかな匂いと、青々しい草木の匂いが鼻腔をくすぐる。
風に乗ってはらはらと降り注いでくる桃色の花弁を目で追っていれば、本殿の正面出入り口の方から、誰かが駆けてくる姿が見える。
「「杏咲ちゃん、おかえり~!」」
「っ、姥名さん、蛇希さん、狗骨さん……!」
一番に出迎えてくれたのは、関わることの多かった男娼の三人組だった。
子どもたちが真っ先に出迎えてくれるかと思っていたので少しだけ拍子抜けしてしまったが、懐かしい顔ぶれを前にして嬉しそうな笑みを浮かべた杏咲は、三人のもとへと駆け寄る。
「皆さん、お久しぶりです。相変わらずお元気そうで安心しました」
「元気も元気。もう体力が有り余ってるくらいだよ」
「杏咲ちゃんとお喋りしたら、もーっと元気になれるんだけどなぁ」
「そうだ、これから一緒に飲まない? 杏咲ちゃんのために特別なお酒を用意するからさ」
キラキラとしたエフェクトを背負って甘い言葉を囁いてくるこの感じも、何だかとても懐かしく感じてしまう。
三人からのお誘いを、また今度の機会にとやんわり断っていれば、のんびりと歩いていた伊夜彦が追い付いてきた。
「オマエら、そこらへんにしておけよ。じゃないとアイツらが拗ねるからな」
「あはは、分かってますよ」
「あの子たち、杏咲ちゃんに会えるからって、何日も前からソワソワしてたもんね」
男娼たちの言葉に、杏咲は子どもたち一人ひとりの顔を思い浮かべながら、早く会いたい気持ちを募らせる。
「あの、皆は離れの方にいるんですよね?」
尋ねれば、伊夜彦はにんまりと含みを持った笑みを広げる。
「あぁ、そうだ。だが実はな……アイツらは、杏咲が来るのは夕暮れ時だと思っているんだ」
「え? でも……」
杏咲が伊夜彦と待ち合わせをした時刻はお昼を過ぎた十三時。いくらゆっくり街中を歩いてきたとはいえ、現在時刻はまだ十四時前といったところだ。
「逆さぷらいずってやつだな! いやぁ、アイツらの驚く顔が楽しみだ」
――どうやらこれは、伊夜彦の悪戯心によって立てられていた計画らしい。
伊夜彦はご機嫌な様子だが、後でそれを知った一部の子どもたちが不満の声を上げる姿が容易に想像できてしまって、杏咲は空笑いを漏らしてしまう。
「よし、それじゃあ離れに向かうとするか」
「はい!」
「杏咲ちゃん、またね」
「今度ゆっくりお喋りしようね~」
男娼三人組に見送られて、杏咲と伊夜彦は離れへと続く庭を進んでいく。サプライズなので、玄関からは入らずに、庭先から現れて驚かせる作戦らしい。
「ふぅ。何だか、緊張してきました……」
「なぁに、アイツらなら何も変わっちゃいないさ。そんなに心配しなくても大丈夫だ」
話しながら歩いていれば、離れの縁側が見えてきた。ちょうど誰かが歩いてきたようで、杏咲たちに気づいたその人物は足を止めると、訝しげな顔でこちらを見つめる。
初めに伊夜彦の姿を目に留めた男の子は、小さく眉を顰めて、嫌悪感を顕わにした表情になった。
そして、次いで杏咲にその視線が向けられる。目が合った、その瞬間――冷めきっていた金色の瞳が、みるみる驚愕の色に染まった。