第百三十四話
四月某日。太陽が天辺に昇っているお昼時の時間に、山彦神社の境内を、杏咲は一人で歩いていた。
境内にある桜の木もちょうど見頃を迎えていて、上を見上げれば、そこは鮮やかな桃色で彩られている。きらきらと零れ落ちる木漏れ日が綺麗だ。
待ち合わせ場所の珠玉の橋の前にやってきたが、そこに人影は見られない。どうやら、まだ伊夜彦は来ていないらしい。
ドキドキと煩い胸の音を落ち着かせたいと考えた杏咲は、鞄の中に仕舞っていた一通の手紙を取りだした。数日前に届いた透からの手紙だ。
そこには、こう綴られていた。
――――
杏咲先生、元気にしてる?
……っていっても、二週間前に会ったばかりだけどね。
あの時、最近食べ過ぎちゃって困ってるって言ってたけど、こっちに戻ってくれば、また子どもたちに振り回される日々が待ってるからね。いい運動になると思うよ。
そうそう、そういえば結局一枚も子どもたちの写真は渡せなかったけど、あれ、実は吾妻の提案だったんだよね。お兄さんになったところを見せて、杏咲先生をびっくりさせたいんだってさ。
その言葉通り、多分杏咲先生は本当にびっくりすると思うから……覚悟しておいた方がいいかも。
杏咲先生がいない間も、子どもたち、鍛錬や勉強にお手伝いも色々と頑張っていたから、会えたらいっぱい褒めてあげてほしいな。
それじゃあ、また来週に。杏咲先生が帰ってくるのを楽しみに待ってるからね。
――――
――そう綴られている文面は、最後に可愛らしい狐の絵が小さく描かれて締めくくられている。“当日は皆でお出迎えするつもりだから、楽しみにしてて”と書かれた吹き出し付きだ。
読み終えた手紙を鞄の中に戻した杏咲は、少しでも緊張を紛らわせようと、小さく深呼吸を繰り返す。
「杏咲、久しぶりだなぁ」
「っ、伊夜さん!」
真後ろから聞こえた声に杏咲が驚いて振り返れば、そこには、一か月振りに顔を合わせる伊夜彦の姿があって。
――皆、急に声を掛けて驚かせてくるのが好きなのだろうか。
つい最近のハクとのやりとりを思い出してしまう。杏咲は余計にドキドキと煩くなった胸の辺りを抑えながら、ぺこりと頭を下げた。
「あの、迎えにきてくれてありがとうございます。改めて、今日からまたよろしくお願いしま…「あぁ、待て待て」
固い挨拶をする杏咲に、伊夜彦は待ったをかけて頭を上げさせる。
「俺と杏咲の仲なんだ。今更そんな堅苦しい挨拶はいらんだろう? それに、アイツらも待ちくたびれているだろうからなぁ。積もる話は向こうに行ってからにしよう」
目を細めて珠玉の橋の向こう側を見据えた伊夜彦は、杏咲が持っていた荷物をさり気なく奪うと、その肩を抱いて橋の方に足を進める。
「杏咲、心の準備はいいか?」
「は、はい! ばっちりです!」
「はは、良い返事だな。それじゃあ――行くぞ」
杏咲はそっと瞼を下ろした。
――もう、初めて会った時のような、不安や恐怖を感じることはない。
淡い光がパッと弾けたかと思えば、二人の姿は現世から消える。
向かう先は、人ならざる者が住まう世界。――大好きな皆が待っていてくれる世界だ。




