第百三十一話
「……で。伊夜さんは、いつまで隠れてるつもりなの?」
「え? ……伊夜さん?」
杏咲は見覚えのある白銀色をジッと見つめる。そうすれば、そこからひょっこり顔を出した伊夜彦は、気まずそうに斜め下に視線を落としながら、ひどく悔いているような表情で杏咲に頭を下げた。
「……杏咲、すまなかった」
五メートルは離れているこの距離からでも、伊夜彦にいつものような元気がなく、どんよりとした重たい影を背負っていることが分かる。
「それは……何に対して謝ってるんですか?」
「……杏咲が危険な目に遭っている時に、側で守れなかったことだ。それに、俺のせいで巻き込んでしまって……」
言いづらそうに視線を下げていた伊夜彦は、そこでとうとう口を噤んでしまう。
杏咲は足を踏みだして、開いている距離を詰める。伊夜彦の顔を真っ直ぐに見つめて、思っていることを伝えるべく口を開いた。
「そんなの、伊夜さんが謝ることじゃないです。私が勝手に巻き込まれただけですし。それよりも私は……」
そこで言おうか言わまいか迷う素振りを見せた杏咲だったが、そろりと顔を上げて伊夜彦の顔を伺いながら、ずっと不安に思っていたことを正直に口にする。
「伊夜さんが全然会いにきてくれないので……顔も見たくないくらいに呆れられちゃったのかなって、心配してたんです」
「っ、そんなわけないだろう!」
伊夜彦は間髪入れずに否定の声を上げる。伊夜彦にしては珍しい荒げた声に驚いた杏咲は、ぱちりと目を瞬いた。
「……ふふ。なら良かったです」
そして。吐息を漏らすような、優しい笑い声を漏らした杏咲を目にして、伊夜彦の強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
「……本当に、すまなかった。杏咲がこれから幸せになる姿を見届けるだなんて言っておいて、結局は怖い思いをさせてしまった。……杏咲に合わせる顔がないと思っていたんだ。もしこの世界が嫌になったと言われたらと思うと……怖くてな。年甲斐もなく、怖気づいていたんだ」
「伊夜はへたれじゃからのぅ」
離れた所から会話を聞いている酒呑童子が、茶々を入れる。
けれど今の伊夜彦は、それに言い返す元気もないようだ。暗い顔をして俯いている伊夜彦の顔を、杏咲は下から覗き込むようにして見上げる。
「嫌いになんてなりませんよ。確かにこの世界にきて、怖い思いだってたくさんしました。だけど、それ以上に……この世界で過ごしてきた日々は、毎日が楽しくて、新鮮で……私、保育士をしていてよかったなって、心から思えたんです。あの日、職を失って心が折れかけていた私を――伊夜さんが見つけてくれた。この世界に導いてくれたんです」
杏咲の真っ直ぐな言葉に、向けられる優しい笑みに、伊夜彦は眩しいものでも見るように目を眇める。
「伊夜さんに透先生、夢見草の従業員の皆さん、そして子ども達がいるあの場所は……私にとってかけがえのない、大切な居場所になりました。だからこの前、伊夜さんや透先生が、私が辞めるのを許可するつもりはないって言ってくれた時……凄く嬉しかったんです。私はこれからもずっと、此処にいてもいいんだって……認めてもらえたような気がして」
杏咲の言葉を聞いた伊夜彦は、密かな呆れを滲ませて眉を下げてから、フッと優しい吐息を漏らして笑う。
「そんなの……とっくに皆が認めているさ。俺たちにとって、杏咲は大切な存在だよ。傍にいてほしいと――皆が心から思っていることだ」
「っ、……はい」
再び泣き出しそうになった杏咲の頭を、伊夜彦はそっと撫でる。
「杏咲の帰る場所は、いつだって此処にあるからな」
伊夜彦の傍までやってきていた透も、その言葉に頷きながら、杏咲を見つめて優しい顔で笑っている。
「……はい。私、これからも皆と一緒にいたいです。だから――また会いに行きます。戻ってきます、絶対に。……待っていてくださいね」
一歩前に足を踏み出した杏咲が、伊夜彦と透の手をそっと握ると、二人は驚いたように僅かに目を瞠って、けれど直ぐに眦を緩めて、微笑む。
「……あぁ。ずっと待っているさ」
「いってらっしゃい、杏咲先生」
「はい! 子どもたちのこと、よろしくお願いしますね」
瞬間、杏咲の身体が光に包まれた。杏咲は眩しさに耐え切れず、目を閉じる。
そして、次に目を開けた時――そこは見慣れた、山彦神社の境内だった。周りを囲む木々はすっかり秋模様に色づき、足元にはひらりと舞い落ちた紅葉の絨毯が広がっている。
「いってきます。そして……ただいま」
呟いた杏咲は、真っ赤な珠玉の橋の方――あちら側に居る皆を思って、深く頭を下げた。そして、くるりとその場に背を向け、人間界にある久方ぶりの我が家に向かって歩き出す。
――離れていても、大丈夫。だって再会の日は、必ずやってくるから。
また、皆に会える日まで。その日を楽しみに――――杏咲はこれから暫くの間、人間界での日々を過ごしていくのだ。