第百三十話
生温い風が吹く曇天の下、見上げるほどに大きく、どっしりと構えている武家屋敷門の前で、伊夜彦は門の向こう側にいる者に向かって、唄うように声を掛けた。
「通りゃんせ通りゃんせ ここはどこの細通じゃ」
『――鬼頭さまの細道じゃ』
門の向こうから返ってきた唄声に、伊夜彦もまた唄を返す。
「ちっと通して下しゃんせ」
『御用のないもの通しゃせぬ』
「……この娘の快気のお祝いに 祝酒を納めにまいります」
『――行きはよいよい帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ通りゃんせ』
少しの沈黙が流れたが、また唄声が返ってきた。それと同時に、目の目にそびえていた大きな門が、音を立てて開かれる。
国杜山の奥地。酒呑童子が住まうこの大きな御屋敷は、唄の合言葉によって正門が開閉する仕組みとなっているのだ。そのため部外者は、この秘密を知っている者でなければ、この先に進むことはできない。
「何じゃ、伊夜が訪ねてくるなんて珍しいことも…「頼む、杏咲を診てやってくれ‼」
門の向こうで待っていたのは、酒呑童子だった。その姿を捉えた伊夜彦は、意識を失っている杏咲を抱えたまま、門の先へと足早に進む。
「紅葉はいないのか!? 杏咲が危険な状態なんだ! 頼む、早く診てやってくれ……‼」
切羽詰まった声で杏咲を助けてほしいと懇願する伊夜彦の表情は、旧知の仲である酒呑童子でも滅多に目にしたことがないほどに、色濃い悲痛の色に染まっていたのだ。
「――あやつも大概、不器用な男じゃからのぅ」
一人呟いた酒呑童子は、花車に乗って夢見草に帰っていく透たちを見送りながら、うっそりと目を細めた。存外不器用で臆病な友人の胸中を慮りながらも、寂しげに微笑んでいたのだった。
***
「あの、わざわざお見送りまでしてもらって……皆さん、本当にありがとうございます」
杏咲が酒吞童子の屋敷で療養してから十日が経ち、とうとう人間界へと戻る日がやってきた。この場には酒呑童子と紅葉、茨木童子と数人の使用人に、透の姿もある。見送りのためにわざわざ駆けつけてくれたのだ。
子どもたちも見送りに行きたいと最後まで駄々をこねていたらしいが、騒動のことがあった中で透一人で皆を引率するのもどうかという話になったらしい。
護衛部隊の半妖たちも、色々と忙しいようだ。
また、数人だけを連れて行くのも不公平になるだろうということで、子どもたちは見送りには来ていない。けれど透が、皆が杏咲のために描いてくれた絵や手紙を、抱えきれないほどたくさん持ってきてくれた。
「吾妻なんかは、杏咲先生がほんの数日程度で帰ってくると思ってるだろうから……これから宥めなきゃいけないことを思うと、ちょっとだけ気が重いかなぁ」
受け取ったそれらを大切に鞄に仕舞い込んだ杏咲は、透のぼやきにクスリと笑いながらも、改めて、世話になった紅葉や酒呑童子たちに頭を下げる。
「酒吞童子さん、紅葉先生、茨木童子さん。それに他の皆さんも……本当に、たくさんお世話になりました」
深く頭を下げる杏咲に、皆は優しい笑みを浮かべながら頭を上げるよう促す。
「またいつでも遊びにくるんじゃぞ。紅葉も喜ぶからのぅ」
「なっ、わ、私は別に、喜んでなんか……!」
「はいはい、紅葉は素直じゃないですねぇ」
「茨木童子、うるさいわよ!」
茶々を入れる茨木童子に噛みつく紅葉を見て、酒呑童子は可笑しそうに笑っている。
この三人とも暫く会えないのだと思うと寂しいが――酒呑童子が言うように、その時には手土産を持って、絶対にまた遊びに行かせてもらおう。
杏咲はいつかの未来を想像して、三人の顔をしっかり目に焼き付けた。最後にもう一度だけ頭を下げてから、次は透に向き合う。
「透先生も……これまでたくさん、ありがとうございました。私がこの世界で今日までやってこれたのは、いつだって透先生が、側で見守っていてくれたからです」
「うん」
「透先生が、子どもたちのことを誰よりも考えて、大切に思ってるってこと……知ってます。そんな透先生は……、これからもずっとずっと、私の自慢の先輩です」
「はは、改まってそんなこと言われると、何だか照れるね。――ねぇ、杏咲先生。そんな、今生の別れじゃないんだからさ。泣かないでよ」
透は眉を下げて困ったように笑いながら、杏咲の頬に手を伸ばした。持っていたハンカチで、杏咲の目尻から零れ落ちてきた涙を拭う。
「す、すみません。暫くの間、会えないんだなって思うと……やっぱり寂しくて」
「……うん。俺も寂しいよ」
たれ目を下げて物悲し気に微笑んでいた透だったが、何故か突然、小さく嘆息したかと思えば、おもむろに後ろに顔だけを向ける。
透の行動を不思議に思った杏咲がその視線の先を辿れば、開かれた正門の扉の影から、チラチラと白銀色の髪が覗いていることに気づいた。