第百二十七話
「はい、最後にこれを飲んで」
「……これ、どうしても飲まないと駄目ですか?」
「駄目よ」
紅葉はピシャリと言い放って、杏咲の手に湯呑みを持たせる。
杏咲は湯吞みの中の透明な液体を見て、うぅっと顔を顰めながらも、意を決して一気に喉に流し込んだ。
――酒吞童子が住まうこの屋敷は、国杜山の奥地にある。そんな屋敷の近くの井戸から汲むことのできる酒の一つには、解毒の効果があるらしいのだ。
杏咲はこの酒を毎食後に飲むよう言われているのだが、アルコール度数のかなり高い酒であるため、普段ほとんど飲酒をしない杏咲には中々にキツかった。少量とはいえ、飲んだ瞬間に喉の奥がカッと熱くなる感覚は、中々慣れそうにない。
「やっと飲んだわね。まぁこの分だと、あと二日も飲み続ければ良くなると思うわ」
「あと二日も飲まないと駄目なんですか?」
「文句言うんじゃないわよ」
「うぅ……はーい」
「……仕方ないから、口直しに林檎を用意してあげるわ。ちょっと待ってなさい」
「……ふふ」
「な、何笑ってるのよ」
「いえ、すごく嬉しいなぁって。ありがとうございます、紅葉先生」
「べ、別に、お礼を言われるようなことはしてないわ。酒吞童子様に頼まれたから、仕方なくやってるだけなんだからね!」
紅葉は矢継ぎ早にそう言うと、杏咲が食事を終えた茶碗を持って、部屋を出ていってしまった。その目尻にほんのりと赤みが差していたのを目にしていた杏咲は、紅葉の不器用な優しさに心をほっこり和ませながら、口許をほころばせる。
杏咲は暫くの間、酒吞童子の住まう屋敷で療養することとなっていた。
紅葉の献身的な看病の甲斐もあり、目覚めてから三日も経てば、普通に動き回れる程度までには回復していた。微熱はあるが、食欲も大分戻ってきている。
紅葉とこんな風に軽口を叩き合えるような仲にまでなれたことを、杏咲は内心で凄く嬉しく思っているのだ。本人にそれを伝えれば「な、仲良くなったつもりはないから!」と、真っ赤な顔で否定されてしまうだろうけど。
「失礼します。入っても大丈夫でしょうか?」
「あ、はい。大丈夫です」
紅葉のものではない、低い声。今のところ、この部屋を訪ねてくるのは三人だけだ。紅葉と酒呑童子、それから――。
「おはようございます。もう朝餉は済ませたんですね」
障子戸の向こうから顔を出したのは、頭上に黄色の二本の角を生やした、釣り目の男。
酒呑童子の配下である茨木童子だ。
「はい。薬酒も飲んだら、紅葉先生が口直しにって林檎を取りにいってくれたんです」
「そうですか、紅葉が……。紅葉もすっかり杏咲さんに懐いているみたいですねぇ」
茨木童子は可笑しそうに目を細めながら、持っていた花束を杏咲に手渡す。紫色とピンク色をしたリンドウの花だ。
「これは旦那様からです。後ほど顔を出すと言っていたので、訪ねてきたら相手をしてあげてください」
酒呑童子はこうして、見舞いにと毎日花を見繕って届けてくれる。いつもは酒呑童子自ら持ってきてくれるのだが、今朝は溜め込んでいた仕事が終わらなかったため、茨木童子が代わりに届けにきてくれたようだ。
「茨木童子さんも、色々とありがとうございます」
「いえいえ、私は何も。むしろ杏咲さんがいらしてくれたおかげで、ここ数日は旦那様が大人しいので、助かってるんですよ。普段は仕事を放って、ふらりと遊びに出かけていることが多いので」
釣り目を細めて微笑みを返してくれる茨木童子は、とても話しやすい雰囲気を纏っていて、ここ数日間寝たきりで暇をしていた杏咲の話し相手になってくれていた。
初対面の時には、手刀を落とされ酒呑童子のもとに連行された苦い思い出もあるため、杏咲はほんの少しだけ警戒していたのだが、今ではそれもすっかり消え失せている。
「……すみませんが、客人がいらしたようなので、一旦席を外させていただきますね」
チラリと玄関がある方向に目を向けた茨木童子は、軽く頭を下げて部屋を出て行った。
茨木童子が用意してくれた花瓶に受け取った花を生けていれば、紅葉が戻ってきた。その手には、食べやすい大きさにカットされた林檎が山盛りになった大皿が抱えられている。
「紅葉先生、おかえりなさい」
「えぇ。……杏咲先生、貴女に来客よ」
「え? 来客?」
布団の隣に皿を置いた紅葉は、障子戸の方に目を向けて「どうぞ」と声を掛けた。
杏咲がその視線の先を辿れば、数日間顔を合わせていなかっただけなのに、随分と懐かしく感じる顔ぶれが並んでいた。