第百二十六話
杏咲は起き上がろうと身体に力を入れる。しかし、まるで鉛がついているかのように身体が重く、腕を動かすだけでも億劫に感じてしまう。
ふっと身体の力を抜いた杏咲は、寝た状態のままゆっくりと顔を横に向けた。そこには、見覚えのある羽織が畳んで置いてある。
「杏咲! 目が覚めたのか!?」
ドタバタと足音が近づいてきたかと思えば、障子戸を勢いよく開けて入ってきたのは、初めて見るような焦った表情をした酒呑童子だった。
「酒呑童子、さん……」
「あぁ、無理に起き上がろうとしなくても大丈夫じゃ」
側までやってきた酒吞童子は、杏咲の額に手を置くと「……うむ。紅葉の言う通り、体内の瘴気は大分浄化できたようじゃな」と安心した様子で微笑む。
「あ、の……私が眠っている間、皆は、子ども達は……玲乙くんや、透先生に……草嗣さんは、どうなったんでしょうか?」
「……そうじゃな。杏咲はそれを知る権利があるからのぅ。順を追って説明しよう」
胡坐をかいて座りなおした酒呑童子は、真面目な顔つきで、あの後どうなったのか、杏咲が気になっていることを詳しく話してくれる。
「紅葉にも聞いたと思うが、杏咲は牢で気を失って、それから五日間眠り続けていたんじゃ。知らせを聞いて出雲から駆けつけたらしい伊夜が血相変えて此処を訪ねてきた時は、儂も驚いたのぅ」
酒呑童子は可笑しそうに目を細めて言う。
「子ども達は杏咲が倒れたことを聞いて動揺しとったらしいが……まぁ、透も付いとるし大丈夫じゃろう。杏咲が目覚めたことは、ついさっき配下の者に使いを出させたからのぅ。直に知らせが届くはずじゃ」
「そうなんですね……ありがとうございます、酒呑童子さん」
「礼などいらんよ。それに、この間は紅葉が迷惑をかけたからのぅ。その詫びだと思って、杏咲は何も気にせずにしっかり身体を休めるんじゃぞ」
酒呑童子は、杏咲が気に病まないようにとわざと茶化した声を出しながら、杏咲の頭をぽんと軽く撫でる。
「それから、杏咲を牢に閉じ込めた伊夜の配下の者じゃが……あの後は拘束されて、兵の者たちに取り調べを受けていると聞いておる。それからどうなったかは、儂も分からんがのぅ」
「……そう、なんですね」
杏咲は草嗣の、憎悪に濡れたその瞳の奥に、確かに滲み出ていた悲しみの色を思い出す。
あの時の透の言葉からも察するに、草嗣はただ、伊夜彦が大切で――伊夜彦のことを思って、此度の騒動を起こすことを決めたのだろう。けれど聡い草嗣のことだ。きっと心のどこかでは、自分のしていることが正しいことではないことくらい、分かっていたはずだ。
……それでも、道理や理屈などの中では収められない、確固たる思いがあったのだろう。
「あの……玲乙くんは、どうしていますか?」
様子のおかしかった玲乙のことが気がかりだった杏咲が尋ねれば、酒吞童子は眉を顰めて、その表情に苦渋の色を滲ませる。
「今は落ち着いているらしいが、本人も混乱していたようじゃのぅ。数日前に話を聞いた時は、部屋で大人しくしていると言っておった。……杏咲は何か聞いたのか?」
「……草嗣さんが、玲乙くんが地下牢で過ごしていたことがあるって言っていました。その時のことを思い出して、様子がおかしくなったんだろうって」
子どもが地下牢で過ごしていただなんて、何かのっぴきならない事情があったのか、若しくは……育児放棄や虐待など、嫌な可能性は幾つも考えられる。だけどそれは杏咲の憶測でしかなく、本当のところは、玲乙やその当事者にしか分かり得ない。
そして酒呑童子は、その真実を多少なりとも知っているのだろう。だからこうして、何とも複雑そうな表情をしているのだ。
「……そうじゃのぅ。今、儂の口から話せることはないんじゃが……ただ、杏咲はこれからも、玲乙や子どもたちと変わらずに接してくれたら、儂としては嬉しく思う」
「……はい。もちろんです」
酒吞童子は、玲乙が地下牢で過ごしていた理由について話すつもりはないようだが、杏咲もそれを追求することはしなかった。
過去がどうであれ、これからも玲乙や他の子どもたちと共に、穏やかで楽しい日々を過ごしていきたいと思う気持ちに、変わりはないからだ。
「どれ、長く話しすぎてしまったのぅ。儂は一旦お暇するとしよう」
「あ、酒吞童子さん。あの、私を此処まで連れてきてくれたのは伊夜さんだって聞いたんですけど、今伊夜さんって……」
腰を上げかけていた酒呑童子は、杏咲の口から伊夜彦の名前が出てくると、その身体をピタリと止めた。
「……あぁ、今は店の方に戻っておる。杏咲が目を覚ましたと知らせを聞いて、今頃安心しておる頃じゃろう」
一拍置いてそう答えた酒吞童子は、ゆるりと立ち上がると、布団の傍らに置いてある羽織に目を落とす。
「……伊夜のやつは、薄情じゃのう」
ポツリと漏れ出た小さな声は、杏咲の耳には届かなかった。
酒吞童子は一瞬寂し気に笑ったように見えたが、直ぐに明るい笑みを広げて、杏咲を見下ろす。
「まぁ、杏咲は何も心配しなくていいからのぅ。暫くは儂の家で、ゆっくり静養しているといい」
「……はい。本当に、ありがとうございます」
「もう少ししたら紅葉が食事を用意してきてくれる。それまで眠っていて大丈夫じゃぞ」
酒吞童子は優しい顔で笑いかけると、杏咲に背を向けて部屋を出ていった。
杏咲は襲ってくる眠気に抗えず、再び暗闇の中に意識を手放した。