第百二十三話
「「透(先生)‼」」
杏咲と十愛の嬉々とした声が、綺麗に重なる。
緊迫した空気の中、現れたのは透だった。杏咲たちを捜して、離れから本殿まであちこち駆けまわっていたのだろう。その額には汗が滲んでいる。
荒い呼吸を整えた透は、部屋の惨状を見て眉を顰め、不可解そうな顔をした。
「何これ、どういう状況? それに、何で此処に草嗣が……」
「あの、玲乙くんの様子が変なんです! 何だか心ここにあらずって感じで、正気を失っているみたいで……!」
杏咲が玲乙の様子がおかしいことを説明すれば、透の視線は草嗣から玲乙へと移る。そのただならぬ雰囲気に、透も気づいたようだ。
「玲乙?」
「っ、はぁ、はぁ……」
名を呼ばれた玲乙は、怠慢な動きで透の方に身体を向けた。依然として苦しそうな顔をしている玲乙の目はどこか虚ろで、焦点が定まっていないようにも思える。
「私は……こんなところで諦めません。っ、これならどうです!」
玲乙の意識が逸れている瞬間を見逃さずに、草嗣が懐から何かを取り出した。ミミズの這ったような字で何かが書いてある、木札のようなものだ。それを持ったまま眼前に掲げると、ぶつぶつと文言を唱え始める。すると草嗣の周りに、黒い靄のようなものが立ち込め始めた。
「草嗣? っ、何してるんだよ……!?」
出入り口付近で立ち竦んでいた透が、慌ててこちらに駆けよってくる。
「私は、伊夜さんのために……私はどうなってもいいから、伊夜さんが、苦しむことのないように……あの方の悲しむ顔は、もう見たくないんです……!」
悲痛な声を漏らす草嗣を見て、何か思うところがあったのか、透は眉を八の字にして、寂し気な顔で微笑んだ。
「草嗣が伊夜さんのことをどれだけ大切に思っているのか、知ってるよ。俺だって……俺にとっても、伊夜さんは大切な妖だから。一人だった俺に手を差し伸べてくれた、唯一の妖だから。……でもさ」
そこで言葉を切った透は、草嗣との開いている距離を埋めるように、一歩足を前に踏み出す。
「あの頃、誰も信じられなかった俺の、初めての友だちになってくれたのは……草嗣だよ」
「っ、……」
「草嗣も、本当は分かってるんだろう? 伊夜さんがこんなこと、望んでるわけないって」
「っ、それ、は……」
「伊夜さんには、俺も一緒に怒られてあげるからさ。……もう止めよう、草嗣」
透の困ったような微笑みを目にした草嗣は、手にしていた木札から手を離した。カランと音を立てて、木札が床に落下する。すると、木札から漏れ出ていた黒い靄が、少しずつ霧散していく。
「と、止まった?」
「……十愛くん、今のうちに此処から出よう。玲乙くんも、早くこっちに……」
まだ辺りを漂っている黒い靄から何か良くない気配を感じた杏咲は、鍵が開いたままの牢から十愛を先に出してから、立ち竦んだままの玲乙の方に振り返った。
しかし、未だにゆっくりと揺蕩っていた黒い靄が、何故か宙で突然その勢いを増し、近くにいる玲乙に襲い掛かろうとする。
「っ、玲乙くん!」
杏咲は咄嗟に、玲乙に覆い被さるようにして倒れ込んだ。間一髪、黒い靄から逃れることはできたが、杏咲の身体を、玲乙が作り出した青い炎が包み込んだ。
「杏咲‼ っ、玲乙くんやめてよ! 杏咲が死んじゃう……‼」
十愛の泣き叫ぶ声が聞こえる。声を荒げた透の制止の声も、草嗣の戸惑ったような声も――杏咲にはそれらの声が、どこか、全て遠くから聞こえるように感じた。
「玲乙、くん……」
「……うっ……」
「……大丈夫。もう、だいじょうぶ、だから……」
庇うように抱きしめた玲乙の身体は、震えていた。いつだって落ち着いていて、気丈な性格をしている玲乙が、今は一目見て分かるほどに取り乱している。――杏咲の目には、まるで玲乙が、何かに怯えているようにも見えた。
無意識に安心させてあげたいと思った杏咲は、玲乙を抱きしめる腕に、そっと力をこめる。
「ぼく、は――……」
玲乙が何か話しているのは分かったが、杏咲の耳に、その声は届かなかった。
身体は青い炎に包まれているはずなのに、皮膚に触れる熱はひんやりと冷たい。身体の奥から凍えてしまいそうな感覚に、杏咲の瞼は自然に落ちていき、意識も段々と薄れていく。音が、声が……少しずつ、遠ざかっていく。
――――トプンッ。
杏咲はそのまま、真っ暗闇の中に、完全に意識を手放した。