第百二十一話
「目を覚まされたんですね」
「……草嗣さん」
「おはようございます、杏咲さん」
扉の向こうから現れたのは、普段と変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべた草嗣だった。
ごくりと固唾を呑んだ杏咲は、草嗣から目を離さぬまま、その一挙手一投足を見逃さないように意識を集中させる。
「あの……どうして私たちを此処に閉じ込めたんですか? 何か考えがあってのことなんでしょうか?」
「えぇ、そうですよ。ずっと考えていたことです」
草嗣は牢屋の前まで歩み寄ってくると、座りこんでいる杏咲たちと目線を合わせるように屈みこむ。
近くで見るその顔には、やはり、いつもと変わらぬ柔らかな笑みが広がっているはずなのに――薄暗く湿っぽいこの場所では、どこか歪で不気味にも見える。
「杏咲さん。貴女は、邪魔なんですよ」
「……邪魔?」
「本来なら、こんなことまでするつもりはなかったんです。紅葉さんが上手くやってくれれば、私の手を使わずとも、穏便に貴女を此処から追い出せると……そう踏んでいたんですけどね」
「紅葉先生が上手くって……どういうことですか?」
何故ここで紅葉の名が出てきたのか。
話の筋が読めずに、杏咲はその意味を尋ねる。
「彼女に、人間である貴女が此処で働いていることや、実習生という制度があるという噂を流したんですよ。酒吞童子さんが貴女に熱を上げているという話を誇張して伝えもしました。そうしたら彼女は、まんまと私の策に乗ってくれたというわけです」
草嗣は、紅葉を利用して杏咲を夢見草から追い出そうとしていたという衝撃の事実を、包み隠すことなく白状した。淡々と話すその声音に恐怖を感じた杏咲は、左右にいる十愛と玲乙を隠すように、少しだけ身体を前に出す。
「何でそこまでして……っ、どうして私が邪魔なんですか? 私、草嗣さんに何かしましたか?」
杏咲が震える声で尋ねれば、草嗣の顔からスッと笑みが消えた。暗く澱んだ色をした無機質な瞳で、怯えた表情をする杏咲の目を真っ直ぐに射抜く。
「えぇ、しました。貴女があの方に近づいた時点で……貴女は私にとって、邪魔でしかない存在です」
「あの方? それって、誰のことを言っているんですか?」
「貴女さえ、貴女さえ現れなければ……伊夜さんは、貴女のような人間が関わっていいお方じゃないんです」
“伊夜さん”
その名を呟いた草嗣は、唇を噛みしめて、苦しそうに顔を歪める。
「伊夜さんが関わっちゃいけない妖だなんて……どうしてですか? その理由を、教えてもらえませんか?」
杏咲は草嗣から詳しい話を聞き出そうとする。その理由次第では、此処から出してもらえるよう、草嗣を説得できるかもしれないと考えたからだ。
しかし草嗣に杏咲の言葉は届いていないようで、虚ろな目でブツブツと呟いている。
「そうです、私が……私があの方をお守りしないと……」
顔を上げた草嗣の仄暗い目に、怯えた顔をした杏咲たちの姿が映しだされる。
「……大丈夫です。別に痛めつけたりするつもりはありませんから。貴女から、この妖界での記憶だけを消させていただきます。貴女はこの世界が嫌になって人間界に帰ったと……伊夜さんには、そう伝えておきますから」
草嗣はうっそりと微笑んだ。
杏咲がその言葉の意味を理解するよりも早く、反論の声を上げたのは十愛だった。
「っ、やだ! 何言ってんのあんた!」
草嗣の異様な雰囲気に怯え切っていた十愛だったが、我慢ならないといった様子で杏咲の背後から飛び出した。
「大丈夫です。君たちも寂しくないように、杏咲さんの記憶だけを、綺麗に消してあげますからね」
「っ、……そんなことしたって、誰かに必ずバレますよ。絶対にどこかで綻びが出ます!」
「大丈夫。私は口が上手いんです。此処の従業員も、皆上手いこと言いくるめておきますから、杏咲さんは何も心配しないでください」
鍵を開けて、草嗣が牢の中に入ってくる。杏咲は前に出ていた十愛の手を引き、背後に隠すようにしながら後退るが、直ぐに壁際まで追い詰められてしまう。
「本当は、この薬は貴女たちに使うためではなく……伊夜さんのために、長い年月をかけて調合した忘却薬だったのですが……もう、仕方ありませんよね」
「伊夜さんのために? それ、どういうことですか……?」
「……貴女はもう、知る必要のないことです」
草嗣は懐から小瓶に入った緑色の液体を取り出して、杏咲の前に屈みこんだ。杏咲が何とかこの場から逃げる方法を考えていれば、背後から、荒い息遣いが聞こえてくる。