第百十二話
「虎雷さん、ご無沙汰してます」
「こんにちは」
「……あぁ。子らが世話になっている」
透と杏咲が挨拶をすれば、客間に通されていた火虎と桜虎の父親――虎雷は、無表情ながらも礼儀正しく頭を下げて返してくれた。
虎雷の目の前には湯呑みと茶菓子が置かれている。恐らく、草嗣あたりが用意してくれたのだろう。
「オヤジ、話って何だよ?」
火虎が腰を下ろせば、虎雷は単刀直入に用件を口にする。
「例年通り、今年も出雲からの招集がかかった。火虎、今年はお前も付いてこい」
「……え? オレが出雲に?」
「あぁ」
「でも、いいのかよ。オレはまだ半人前だって自覚してるし……邪魔になるんじゃねーの?」
「否、お前の今の実力は、オレも把握している。その上で同行しても問題ないと判断した」
火虎は迷う素振りを見せたが、虎雷からの“問題ない”との言葉を耳にすると、緊張と興奮を綯い交ぜたような顔をして力強く頷いた。
「うし、分かった! オレも出雲に付いてくよ」
「と、父ちゃん!」
火虎が返事をした直後、障子戸の裏でこっそり話を聞いていた桜虎が飛び出てくる。
「兄ちゃんが行くなら、オレも付いてっていいんだろ?」
期待に満ちた明るいまなざし。けれど、虎雷の言葉を耳にした次の瞬間――その瞳は落胆の色を宿した暗いものへと変わってしまう。
「……お前は駄目だ」
「な……っ、何でだよ!」
「お前がまだ未熟だからだ。足手纏いになる者を連れていくことはできない」
ピシャリと厳しい物言いをした虎雷に、桜虎は言い返そうと口を開いたが――結局は口を閉ざして下唇を噛みしめると、この場に背を向けてしまう。
「っ、桜虎くん!」
部屋から飛び出ていった桜虎を杏咲は追いかけようとするが、厳粛な声に引き止められる。
「放っておいてもらって結構です。あれは、まだ自分の力の制御もできない。自身で現実を受け止めることも必要です」
「で、でも……」
「これは家族の問題です。……貴女には関係のないことだ」
ピシャリと一蹴されてしまった。その威圧感を感じる声が、杏咲の鼓膜を通って脳を揺さぶった、その瞬間。――――夢見草にやって来る前、人間界で働いていた頃の苦しい記憶がフラッシュバックして、杏咲の脳裏に鮮明によみがえる。
「っ、あ、の……すみません。私はこれで、失礼します」
杏咲は今にも震えだしてしまいそうな腕を掌で押さえつけながら、虎雷に頭を下げた。この場に背を向けて、桜虎を捜しに向かう。
――桜虎くんたちのお父さんは、あの人とは違う。全然違うって分かってるのに……嫌なこと、思い出しちゃったな。
杏咲が勤めていた保育園を辞めることにもなった原因。今も杏咲の心の奥底、根っこの部分に巣食っている……忘れることのできない、トラウマともいえる出来事。
あの時、担当児の父親と対峙した時の――怒りと悲しみ。そして、何もできなかった自分自身に対して、罪悪感で押しつぶされそうになった時の――辛くて苦しい、記憶。
(っ、ううん、今はこんなこと考えてる場合じゃない。早く桜虎くんを捜さないと……)
ふるふると頭を振って桜虎を捜すことに集中すれば、庭の方に、獣耳をシュンと垂れ下げている小さな背中を見つけた。
桜虎は庭にある池の前にしゃがんで、一人で膝を抱えていた。俯き水面を見つめたまま、ぼうっとしている。
近づいてきた杏咲に気づいてゆっくりと顔を上げたが、むっつりと口を閉ざしたまま、膝に顔を埋めてしまう。