第百十話
「紅葉って、もしかして……影勝のお父さんのことが好きなの?」
「っ、なっ……!」
自身の片耳に付いた耳飾りを外した十愛が、紅葉の側に近寄り、覚の妖力を使って紅葉の心を読んだのだ。
十愛の言葉に動揺を顕わにした紅葉は、口許をわなつかせて震え出す。その顔は、熟れた林檎のように真っ赤に染まっている。
――影勝くんのお父さんって、酒吞童子さんのことだよね? でもどうして、ここで酒吞童子さんの名前が……ということは、紅葉先生が言う“あの方”は酒呑童子さんってこと? そもそも紅葉先生は、酒吞童子さんの知り合いなのかな?
杏咲の脳内が疑問符で埋め尽くされていく。
「……はぁ。いつまでも隠れていないで、いい加減出て来い」
皆が疑問符を浮かべている中、ため息を零した伊夜彦がそう言うと、そこに、渦中の人物が姿を現した。
「久しぶりじゃのぅ」
「……え!? 何で此処に酒呑童子さんが……?」
まさかの酒吞童子本人の登場に、杏咲や子どもたちは驚きを顕わにする。
影勝だけは、あからさまなほど嫌そうに顔を顰めているが。
「実はな、紅葉は酒呑童子の所に住んでる半妖なんだ」
「「半妖?」」
「……成程ね」
伊夜彦の簡単な説明に、透は合点がいったと言いたげに呟く。
「夢見草から帰ってきた酒呑童子さんが、杏咲先生の話ばかりするから……それで紅葉先生は、やきもち妬いちゃったんだね」
「なっ……だ、誰がこんな人に、やきもちなんて……!」
透の的を射た言葉に、紅葉は分かりやすく動揺して更に顔を赤く染める。
「……紅葉」
皆の前に姿を現した酒呑童子は、挨拶もそこそこに、座りこんだままの紅葉の前に足を広げて屈みこんだ。
酒呑童子に声を掛けられた紅葉は、借りてきた猫のようにピタリと大人しくなったかと思えば、その身を小さく竦めている。まさに、親に叱られるのを察知した子どものような……不安を滲ませた瞳で、恐る恐る酒呑童子を見上げた。
「だ、だって……酒呑童子様が、その人の話ばかりするから……っ、私、寂しくて……」
メソメソと泣きだした紅葉は、つっかえながらも、酒呑童子に素直な思いを吐露する。
「だ、だから私が、見定めてやろうと思って……」
「……そんじゃあ、何わざわざで鬼に変化してたんじゃ?」
「しゅ、酒呑童子様に、少しでも見合う女性になりたかったから……」
そこまで言い切った紅葉は、酒呑童子の胸の中に飛び込んだ。ぐりぐりと甘えるように頭を擦りつけている。
「成程な。それで角まで生やしてたのか」
話を聞いた伊夜彦は、納得がいったというように頷いた。大人の姿になるだけでなく頭上に角を生やしていた理由は、大好きな酒呑童子に少しでも近づきたかったからのようだ。
「……気持ちは分かった。だがな、紅葉。杏咲にはきちんと謝るんじゃぞ」
酒呑童子の優しく諭すような声に、紅葉の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちていく。
「うぅっ……ご、ごめんなさい……」
紅葉からの素直な謝罪に、杏咲は小さく首を横に振って応える。
「いえ、私の方こそ……約束を破ってしまってごめんなさい」
「……もういいわ。どっちみち勝負は、貴女の勝ちだったでしょうし」
気まずさと照れ臭さを混ぜたような顔で視線を逸らした紅葉は、ポツリと吐き出すように言葉を紡ぐ。
かなり分かりにくくはあるが、紅葉なりに、杏咲が此処で働くことを認めてくれたように思えて――杏咲は密かに口許をほころばせる。
「にしてもよぉ、自分で作り出した幻術世界で、雷に驚いて足を滑らせるって……何か間抜けだったな」
話が落ち着いたところで、頭の後ろで手を組んだ火虎が、笑いながらも半ば呆れた様子で呟いた。それを聞いた紅葉は、直ぐに反論の声を上げる。
「なっ、違うわよ! いつもならそんなヘマしないわ! さっきはちょっと調子が悪かっただけで……、待って。どうして貴方、私が雷で足を滑らせたって知ってるの?」
「あ、やべ」
火虎はわざとらしく口許を掌で覆ってみせる。
「何よ……まさかあの雷、あんたの仕業だったわけ?」
「あー、ワリィワリィ。まさかそのまま落っこちてるとは思わなかったんだよ」
――どうやら火虎は、紅葉が妖術で作り出した世界に干渉しようとしていたらしい。
軽い調子で謝るが、紅葉は悔し気な顔をして火虎を睨みつけている。
「そ、そもそも杏咲先生が、崖の方に追いかけてくるから悪いんじゃない……」
尚も言い訳しようとする紅葉だったが、湯希がポツリと漏らした言葉に、「うっ」と声を詰まらせる。
「助けてもらったのに、人のせいにしたり、言い訳するのは……カッコ悪いと思う」
その指摘がグサリと突き刺さったのか、それ以上の反論の言葉は出てこないようだ。
「……で、でも、杏咲先生、勘違いはしないでくださいね。今回は助けられましたけど……私は貴女のこと、完全に認めたわけじゃありませんからね!」
「は、はい」
「酒呑童子様の側に一番相応しいのは、この私ですからね!」
「はい、もちろん分かってますよ」
酒呑童子の腕にギュッとしがみついて捲し立てるように言った紅葉は、杏咲の返事を聞くと、フンッと顔を逸らした。
「ったく、紅葉は……色々と迷惑をかけたようですまんのぅ、杏咲」
酒吞童子は紅葉のこういった高飛車な態度には慣れている様子で、その頭をぽんぽんとあやすように撫でている。
――こうして、紅葉は酒吞童子に連れられて、その日のうちに国杜山へと帰っていった。
「はぁ……、何だか慌ただしい実習期間になったね」
嵐のようにあっという間に帰ってしまった紅葉に、透は肩を回しながら疲れたような息を吐きだす。
「本当ですね。……でも、」
杏咲は手元にある栞を見ながら口許をほころばせた。この栞は帰り際に、紅葉が杏咲に返してくれたものだ。
「……これ、返すわ」
「え?」
「杏咲先生にとって、大切なものなんでしょ。……悪かったわね、意地悪して」
紅葉は視線を斜め下に落として気恥ずかしそうにしながらも、自身の非を認めて、再度謝罪の言葉を真っ直ぐに伝えてくれた。
「紅葉先生って、ちょっぴり素直じゃないだけで、本当は凄く優しい半妖なんだろうなって思うんです。子どもたちだってすごく懐いてましたし」
「まぁ……うん、そうだね」
「それに、酒吞童子さんのことが本当に大好きなんだなってことが伝わってきて……それだけ思える相手がいるって、凄く素敵なことじゃないですか? だから今度会えたら、次はお友達として色々なことを話せたらいいなって……それこそ、紅葉先生の恋バナなんて聞かせてもらえたら嬉しいなぁって。そう思ってるんです」
頬を緩めて話す杏咲の横顔を見た透は、柔らかな呆れ笑いを浮かべる。
「杏咲先生って、やっぱりお人好しだよね」
「え、お人好し? ……そうですか?」
「うん、そうだよ。それもとびきりのね」
――そんな意地悪をされた相手と、次は友達として話したいだなんて思う人、早々いないでしょ。
不思議そうに首を傾げる杏咲を見た透は目を眇めながら、優しい表情で、可笑しそうに笑っていた。