第百八話
「っ、紅葉先生……!」
杏咲は咄嗟に駆けだし、崖から落ちそうになった紅葉の手を何とか掴んだ。
「は、離して! っ、貴女みたいな、何の役にも立たない人間に助けられるなんて……死んでも嫌よ!」
「っ、私も嫌です! 絶対に、離しません……!」
杏咲の顔を見上げて、紅葉は叫ぶような声で言う。しかし杏咲はその言葉をきっぱりと跳ね返して、握る手に力を込めた。けれど二人の身体は、どんどん滝壺のある下降へと吸い込まれていく。
「……って、貴女、全然支えられてないじゃない!」
「お、おもっ……」
「ちょっと貴女、今重いって言った!? 言ったわよね!? 言っておくけど私は……!」
紅葉の非難の声は、そこで止まった。支えきれなくなった杏咲の身体が、とうとう地面から離れたからだ。
「きゃー‼」
「っ、」
重力に従って、二人の身体は崖下に真っ逆さまに落ちていく。耳元で紅葉の絶叫を聞きながら、杏咲は固く目を閉じて、来たる衝撃と痛みを覚悟する。
「全く、杏咲はいつも無茶ばかりするな」
――甘い花のような柔らかな匂いが、杏咲の鼻腔をくすぐる。鼓膜を揺らしたのは、もう大丈夫だと、不思議と安心できるような、柔らかな声だった。
予想に反して地面に叩きつけられることはなく、次に杏咲が目を開けた時、そこは伊夜彦の腕の中だった。
「……何で、伊夜さんが此処に? それに私、今まで崖の上にいたはずなのに……」
伊夜彦に抱えられたまま、呆然と辺りを見渡していれば、足元で座りこんでいる紅葉の姿を見つける。
「っ、紅葉先生! どこか怪我はしていませんか?」
「……。……ええ、大丈夫……」
伊夜彦に下ろしてもらった杏咲は、その場に屈んで、紅葉の安否を確認する。紅葉は何が起きたのか分からないといった様子で、半ば放心状態だ。
「杏咲先生!」
そこに、透と子どもたちが駆けつけてきた。一番に飛びついてきた十愛の身体を、杏咲は慌てて受け止める。
「杏咲、大丈夫!? どこかけがしてない……?」
「うん、私は平気だよ」
瞳を潤ませて心配してくれる十愛たちに無事を伝えながらも、杏咲はこの状況を、いまいち把握できずにいた。
「あの、何で皆が勢ぞろいしているんでしょうか……?」
杏咲は、初めに目が合った透に尋ねる。
「伊夜さんがね、妙な妖気を感じるって言って、突然走り出しちゃったから……姿の見えない杏咲先生のことを捜してたんだよ」
透は伊夜彦を見て、杏咲を見て――そして最後に、紅葉に視線を向けた。その口許は弧を描いているが、瞳は笑っていない。
「まぁ待て、透。俺が説明する。……が、その前に――紅葉。その頭はどうしたんだ?」
黙ったまま地面に座りこんでいた紅葉だったが、身を屈めた伊夜彦が頭上に手を伸ばせば、顔を強張らせて後退り、距離をとろうとする。
しかし、伊夜彦が紅葉の頭にポンッと手をのせれば、紅葉の身体から、ボフンッと音を立てて白い煙が噴き出てきた。
そして、次に視界に映った光景に――その場にいる全員が、驚きで目を瞠ることになった。