第百七話
「俺もそろそろ戻らないと、また草嗣にどやされるかもしれないからな」
「ふふ、そうですね」
杏咲と伊夜彦が共に屋敷の方へと向かっていれば、離れの方から、子どもたちの大きな呼び声が聞こえてくる。
「杏咲ちゃーん!」
「杏咲、どこ行っちゃったんだろう……」
「もしかして、また影勝のお父さんに連れて行かれちゃったんじゃ……」
「皆、私は此処に居るよ!」
不安げな顔をしている子どもたちに気づいた杏咲が慌てて駆け寄れば、その姿を視界に捉えた子どもたちがわっと集まってきた。この場にいるのは、十愛に桜虎、吾妻と柚留の四人だ。
「杏咲ちゃん、今まで何処行ってたん?」
「一応透先生には伝えておいたんだけど……少し伊夜さんと出掛けてたんだ」
「透なら兄ちゃんたちに連れ出されて、今は鍛錬場で手合わせしてるぞ」
どうやらすれ違いになって、杏咲が不在にしていることが子どもたちまで伝わっていなかったようだ。
のんびり歩きながら遅れてやってきた伊夜彦は、手前にいた桜虎の頭をぐりぐり撫でながら、謝罪の言葉を口にする。
「悪いな、俺が杏咲を連れ出してたんだ」
「二人でどこに行ってたの?」
「ん? 何処って……デェトだよ、デェト」
十愛と吾妻、桜虎の三人が、揃って首を傾げる。
「でぇとって、何?」
「確か、仲の良い男女が二人きりで出掛けること……って意味だったと思うよ」
何かの本で読んで得ていた答えを柚留が口にすれば、十愛はプクリと頬を膨らませて、杏咲の腰元にしがみつく。
「なら、おれも杏咲とでぇとする!」
「なら、おれも! 杏咲ちゃんとおれ、めっちゃ仲良しやもん!」
十愛の反対側から、吾妻が抱き着いた。
「違う! 杏咲と一番仲が良いのはおれだから!」
「ちゃうで! 一番の仲良しはおれや!」
「おれ!」
「おれや!
むーっと睨み合っている二人に挟まれた杏咲は困り顔だが、それを見た伊夜彦は可笑しそうに笑っている。
そんな十愛たちの騒ぐ声を聞きつけた他の子どもたちも集まってきた。そこには、一緒に段ボールでお家作りをしていたのだろう、湯希と紅葉の姿も見える。
「ん? おぉ、紅葉じゃねーか」
「い、伊夜様……」
紅葉は伊夜彦の姿に気づくと、ピシリと固まって表情を強張らせた。手に持っていた布切れを何故かサッと頭に乗せて、気まずげに視線を逸らしている。
「子どもたちはどうだ?」
「……は、はい。皆いい子ばかりで……先生方にもよくしてもらっています」
「はは、そうか。なら良かった」
伊夜彦は「頑張れよ」と紅葉に激励の言葉を掛けて、再び杏咲に向き合う。
「そんじゃあ杏咲。……またデェトしような」
そう耳元で囁いて楽しげに笑うと、ひらりと手を振り、本殿の方に戻っていった。
***
伊夜彦に、美しい桜が咲き乱れた幻術の世界に連れていってもらった翌日のこと。
青空が澄み渡る気持ちのいい秋晴れの日に、杏咲は縁側で一人、透に貸してもらった妖怪図鑑の本を読んでいた。様々な妖怪がイラスト付きで紹介されていて、見ているだけでも面白い。
こちらの世界に詳しくない杏咲は、少しずつでも妖怪について知っていきたいと考え、時間を見つけては妖怪関連の色々な本に目を通していた。
「あら、これは何ですか?」
「……紅葉先生」
本を読むことに没頭していた杏咲の頭上に、影が落ちる。顔を上げれば、そこに立っていたのは紅葉だった。杏咲が図鑑に挟んでいた栞を手に取り、物珍し気に見ている。
ペンタスの花を押し花にして作った栞は、柚留を筆頭に子どもたちが作って、杏咲にプレゼントしてくれたものだった。
「その栞は、子ども達に貰った……私の宝物なんです」
「へぇ、この薄っぺらい栞が……杏咲先生にとっては大切なものなんですね」
杏咲と二人きりの時にはすっかり猫を被ることを止めたらしい紅葉は、杏咲の手から掠めとった栞を手に持ったまま、庭へと降り立つ。
「あの、紅葉先生?」
「……これ、返してほしいですよね? 返してほしいなら、自分の手で奪い返してみてください」
紅葉は意地の悪い笑みを浮かべると、ふらりと庭の奥へと進んでいく。
「え!? っ、ま、待ってください!」
軒下に置いてある下駄を履いた杏咲は、慌ててその背を追いかける。ずんずん奥の方に進んでいく紅葉は、急に足を止めたかと思えば、パッと杏咲の方に振り向いた。
にんまりと笑っているその口元が、よく見れば微かに動いている。何か呟いているようだが、その言葉は小さすぎて、杏咲の耳には届かない。
「……え、あれ? 私、離れの庭にいたはずなのに……」
杏咲が目の前の紅葉に意識を向けていれば、気づけば周りの景色が、がらりと変わっていた。辺りは薄暗く、深い緑が生い茂っている。向かい合って立っている紅葉の直ぐ後ろには、滝壺があるようだ。流れ落ちる激しい水が、真白の水けむりを巻き上げている。
「あの、紅葉先生、此処って一体……」
ぬかるんでいる地面で足を滑らせないようにと気をつけながら、杏咲は紅葉の方へと足を踏み出す。状況を把握できずに不安げな顔をしている杏咲を見て、紅葉はおかしそうにクスクスと笑った。
「杏咲先生ってば、そんなことも分からないんですか? 本当に……何の能力も持たない、ただの人間なんですね」
蔑むようなまなざしに射抜かれて、杏咲がグッと言葉を詰まらせる。――その時、薄暗い空から、雷鳴が鳴りひびいた。
身を震わすような大きな音に驚いて、杏咲はギュッと目をつむった。そして、閉じてしまった瞼をゆっくりと持ち上げた、次の瞬間――紅葉の立っている足場が崩れて、紅葉の身体が、今まさに、後方へと投げ出されようとしていた。