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妖花街にて保育士をすることになりまして。  作者: 小花衣いろは
第十四章 自分にできることを
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第百六話



「はぁ。私ってば、何であんなこと言っちゃったんだろう……」


 紅葉に勝負を持ち掛けられた翌日のこと。杏咲は縁側で一人、物思いに耽っていた。


 ――勝負だなんて、本当は断るつもりだったのに……売り言葉に買い言葉のような形で、気づけば勝負を受けてしまっていたのだ。


「今日だって、一緒にお家を作る約束、してたのに……悲しい思いさせちゃったかな……」


 ついさっき、朝食を食べ終えた杏咲のもとへ遊びの誘いにきたのは湯希だった。しかし杏咲に代わって、側で話を聞いていた紅葉が誘いを断ってしまった。


「確か杏咲先生は、お仕事があるんですよね? だから湯希くん、私と一緒に作りましょう?」

「お仕事? ……そうなの?」


 湯希と紅葉に同時に見つめられた杏咲は、嘘を吐くことを心苦しく思いながらも、昨夜の紅葉との約束を思い出して、小さく頷いた。


「……うん、そうなの。大切なお仕事が、まだ残ってるんだ。だから今日は、紅葉先生にたくさん遊んでもらってね」

「……うん、わかった」


 湯希はしょんぼりと肩を落としながらも「お仕事……がんばってね」と労いの言葉を掛け、紅葉と一緒に大広間を出ていったのだ。



「まーた浮かない顔をしているなぁ」


 杏咲の憩いの場と化している縁側に来訪者が一人、ふらりと現れた。


「……伊夜さん」


 「よっ」と手を挙げて歩み寄ってくるのは、数日振りに顔を合わせる伊夜彦だ。当然のように杏咲の隣に腰を下ろすと、グーッと両腕を頭上にかざして伸びをしながら、のんびりとした口調で杏咲に尋ねる。


「そんで、今度は何で悩んでるんだ?」

「……伊夜さんって、人の心の中を読んだりする能力でも持ってるんですか?」

「ははっ、そんな能力が使えれば願ったり叶ったりなんだがなぁ。それは覚の半妖である、十愛の専売特許だな」

「……ふふ、確かにそうですね」


 ――伊夜さんとのお喋りは、やっぱり落ち着くなぁ。


 杏咲の笑顔を横目に見ていた伊夜彦は、突然立ち上がった。


「なぁ杏咲。今から俺と、二人で出掛けよう」

「……え? 今からですか?」

「あぁ、今からだ。デェトってやつだな」


 二ッと楽しげに笑った伊夜彦は、困惑している杏咲の手を引いて立ち上がらせる。


「透は……おっ、部屋にいたな」


 スパーンッといい音を立てて障子戸を開ければ、私室で文机に向き合っていた透は、突然の来訪者にビクリと肩を震わせる。


「え、伊夜さん? それに杏咲先生まで……揃ってどうしたの?」

「今から杏咲と一緒にデェトに行ってくるから、子どもたちのことは任せたぞ」

「……は? え、デートって、急に何言って……」


 杏咲と同様に、状況が飲みこめず困惑している透を置いて、伊夜彦は縁側に向かって歩き出す。そして、軒下に置いてある下駄を履いて庭に出た伊夜彦と杏咲は、そのまま奥の方へと進んでいく。


「あの、伊夜さん? 何処に行くんですか……?」

「んー……よし、此処らでいいだろ」


 杏咲の問いには答えず歩き続けていた伊夜彦は、ピタリとその足を止めて、杏咲の両肩に手をのせる。


「杏咲、目を閉じていてくれ」

「え? は、はい」


 訳も分からぬまま、杏咲は伊夜彦に言われた通り瞼を下ろす。それと同時に、伊夜彦に肩を引き寄せられた。


「――杏咲、もう目を開けていいぞ」


 耳元で、伊夜彦の柔らかな声が鼓膜を揺らした。ゆっくりと目を開けた杏咲が、その瞳に映した光景は――辺り一面に桜の花が咲き乱れた、美しい景色だった。


「……って、えぇ!? い、伊夜さん、此処はどこですか……?」

「はっはっ、驚いてるなぁ」


 伊夜彦は杏咲の反応を見て、可笑しそうに笑っている。


「此処は、俺が作り出した世界だ」

「伊夜さんが、作り出した世界……?」

「あぁ。俺は妖狐だからな。幻術の類には、特に長けているのさ」


 つまりこの世界は、伊夜彦が作り出した幻の世界……ということなのだろう。


「……伊夜さんって、やっぱり凄い妖なんですね」

「はは、そうだろう? もっと褒めてくれていいぞ?」


 嬉しそうに笑った伊夜彦は、桜の大木の下でごろりと寝転んだ。杏咲も真似して隣にそっと寝転んでみれば、視界いっぱいに桃色の花が広がる。花枝の隙間から、淡く揺らいだ春の光が、柔らかな絹が滑り落ちるように降り注いでくる。


「……綺麗ですね」

「あぁ。此処は俺の秘密の場所でな。たまに息抜きに来るんだ。一人でぼうっとしたい時なんかにな」

「ふふ、伊夜さんって、本当に桜が好きなんですね。夢見草の周りにもたくさん桜の木が植えられていますし」

「……あぁ、そうだな。この世で一番美しいと思ってるよ」


 伊夜彦は目を眇めたまま、舞い落ちる花弁をゆっくりと目で追いかけている。

 この世で一番美しいと思えるもので埋め尽くされた世界は――伊夜彦がこんなにも無防備な表情をさらけ出せるほどには、心休まる場所なのだろう。


「そんな大切な場所に、私を連れてきてくれたんですか?」

「あぁ。美しいものを目にしていると、どんな悩みも些末なものに思えてくることがあるだろう?」

「それは……確かに、そうかもしれませんね」


 杏咲は桜の木を見上げて、その美しさにほぅっと息を吐く。杏咲も桜は好きで春には花見にも行くが、こんなにも優美で幻想的な景色を見るのは初めてだった。


「それに杏咲は、俺の命の恩人だからな。この場所に招待するには十分値するだろう?」

「命の恩人って……出会った時のことですよね? ですから、それは大げさですよ」

「いや、そんなことはないぞ。だから俺は、杏咲に恩を返さねばならないからな。杏咲がこれから幸せになる姿を見届けないとならない」

「っ、ふふ、何ですかそれ。伊夜さんってば、お父さんみたいなこと言いますね」

「父親か……杏咲みたいな可愛い娘がいたら、存分に甘やかしてしまうだろうなぁ」

「もう十分過ぎるくらいに甘やかしてもらってますよ」


 横に顔を向ければ、杏咲と伊夜彦の視線が交錯する。伊夜彦は優しく微笑みながら、杏咲の髪に舞い降りてきた花弁にそっと手を伸ばした。


「いい息抜きになっただろう?」

「……はい!」


 杏咲の満面の笑みを見た伊夜彦は、大きな掌で杏咲の目元を覆い隠した。杏咲が瞼を下ろせば、ふわりと温かな風が、二人の周りを包む。

 そして、杏咲が再び目を開ければ――そこは見慣れた、離れの庭園だった。いつの間にか現実世界へと戻ってきたようだ。



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