第百話
第百話!実習生編スタートです。
ゆっくりと夏が過ぎ去っていき、微かに秋の匂いを感じるような九月初旬。暑さも和らいだ初秋の朝は、風がさらりとしていて気持ちがいい。
つい先日まで半袖を着用していた杏咲も、今は薄手の長袖シャツに袖を通している。
数日前、伊夜彦に頼んで人間界にある自宅へと戻り、薄い長袖や羽織物といった秋物の服を引っ張り出してきたのだ。
「わ、本殿の庭の木も綺麗に色づき始めてますね」
杏咲と透は横並びになり、夢見草本殿の長い廊下を歩いていた。
庭木は美しく刈り揃えられており、丸池の向こう側には白と赤色の彼岸花がポツリポツリと咲き始めている。夏から秋へと景観を変え始めている庭園を見て杏咲が呟けば、透も足を止めてそちらへと視線を向ける。
「本当だね。……そうだ、今度皆で紅葉狩りにでも行けたら楽しいかもね」
「紅葉狩り! いいですね。そしたらまた、皆でお弁当も作りたいです」
「お弁当と言えば……国杜山へピクニックに行った後に作ったツナマヨおにぎり、子どもたちに大好評だったよね」
「それじゃあ、ツナマヨおにぎりの材料も買ってこないとですね。……ふふ。何だか、毎日が楽しすぎて……あっという間に毎日が過ぎていっちゃう感じがします」
「うん、俺もそうだよ。あっという間なのに、此処で過ごす一日一日の時間が濃密すぎて……その全部がすごく、幸せでさ。子どもたちが笑って過ごせるこんな毎日が、これからもずっと続いたらいいんだけど」
透はどこか遠くを見つめているようなまなざしで目を眇めている。
「幸せな毎日を……子どもたちの笑顔を守るのが、私たちの仕事ですもんね!」
「……うん、そうだね。その為にも、一緒に仕事をする仲間を早く迎えに行かないとね」
「はい!」
杏咲と透は止めていた足を再び前へと動かす。二人が向かっていた先は、夢見草の本殿にある客間の一室だった。
辿り着いた部屋の前で廊下から声を掛け、透は障子戸をゆっくりと引く。障子戸を隔てたその先にいたのは、頭に一本の小さな角が変えている、綺麗な妖だった。
背筋をピンと伸ばして正座しており、透と杏咲の来室に気付くと、スッと三つ指をついて頭を下げる。艶やかな長い黒髪が、はらりと垂れ下がった。その所作の一つ一つが美しく、気品を感じさせる。
「初めまして、紅葉と申します。本日から一か月間お世話になりますので、宜しくお願いいたします」
ゆっくりと顔を上げた女――鬼の妖怪である紅葉は、手前にいた透の顔を真っ直ぐに見上げて柔らかな声音で挨拶をする。
「初めまして。伊夜さんから話は聞いてると思うけど、俺は水無瀬透と言います。よろしくね」
「水無瀬様、ですね」
「いやいや、そんなに固くならなくていいから。様なんて付けなくていいし、もっと砕けた話し方で構わないよ」
透の言葉に暫し逡巡した様子の紅葉だったが、直ぐに納得して頷き、その薄い唇を開く。
「分かりました。敬語の方は癖ですので気になさらないでください。それでは……透先生とお呼びしてもよろしいですか?」
「うん、もちろん。僕たちは紅葉先生って呼ばせてもらうね」
そう言って透が杏咲に目を向ければ、後を追うように紅葉の視線も杏咲へと向けられる。
「貴女は……」
杏咲の存在に気づいた紅葉は、杏咲の頭のてっぺんから足元まで、ジーッと値踏みするようなまなざしで見つめてから、ニコリと綺麗な笑顔を浮かべて頭を下げた。
「初めまして、紅葉と申します」
「は、初めまして。双葉杏咲といいます」
どこか探るような目つきで見られたことに加えて紅葉の美しさにもあてられてしまった杏咲は、ドキドキと緊張で鼓動を高鳴らせながらも、小さく頭を下げて挨拶を返した。
「……貴女が、杏咲さんなのね」
「はい、私は杏咲です、けど……」
「……伊夜様が、貴女のことを大層褒めていらっしゃったんです。なので、貴女にお会いできるのをすごく楽しみにしていたの。……宜しくお願いしますね」
にこりと美しい微笑を湛えた紅葉が、白魚のように白くてなめらかな手を差し出してくる。杏咲も右手を前に出して握手をすれば、紅葉は笑みを深めてコテンと小首を傾げる。
同時に、腰元までありそうな長い黒髪がさらりとたなびいた。紅色の着物によく映えていて、よく手入れされていることが窺える。
「貴女の仕事ぶり、この目でしかと拝見し……勉強させていただきますね」
「……は、はい」
何だか妙な威圧感とでも言うべきか……美しい笑顔の裏に明確な敵意が隠されていることが、はっきりと感じ取れる。杏咲は僅かに表情を強張らせながらも、何とか笑顔を作って応えた。
「それじゃあ早速、子どもたちの所に行こうか」
「はい」
透を先頭に紅葉、杏咲と続き、離れに向かうべく再び長い廊下を歩く。
伊夜彦は所用で今日は朝早くから何処かへ出かけているらしく、その姿を見ることは叶わなかった。
杏咲は前を歩く紅葉のピンと伸びた背中を見つめながら、何か嫌われるようなことをしてしまっただろうかと頭を悩ませていた。けれど思い当たるようなこともなく、その答えが見つかる前に、子どもたちが待っている大広間に到着してしまった。