第十一話
十愛と桜虎と無事におつかいを済ませた、翌日のこと。
あの後すぐに人間界へと戻った杏咲は、帰宅して荷物を纏めた。今日から本格的に、妖界での一か月の生活が始まることになるのだ。
伊夜彦に迎えにきてもらい、昨日と同じように珠玉の橋を通って妖界に足を踏み入れる。変わらず大きく荘厳な雰囲気の店を見上げながら、杏咲は不意に浮かんだ疑問を解消すべく、伊夜彦に問いかける。
「そういえばこのお店って、店名とかはないんですか?」
「あぁ、そういえば店の名前を教えていなかったな。この店は“妖花街 夢見草”といってな、俺が名付けたんだ」
「夢見草……綺麗な名前ですね」
「あぁ、俺も気に入ってるんだ」
表門から入り、中庭を通って離れに向かう。建物の中を通るよりこっちの方が近いらしい。
伊夜彦の後を付いて行けば、離れの庭の先に透らしき人物を見つけた。何やら作業をしている様子で、屈み込んで手を動かしているのが分かる。
「お~い、透」
伊夜彦の呼び声に、透は顔を上げる。「伊夜さんおはよう」と挨拶をし、次いで背後にいる杏咲に気づいて、気さくな様子で声を掛けてくる。
「杏咲先生もおはよう」
「おはようございます。あの、今日から本格的によろしくお願いします」
「うん、こちらこそ。でも杏咲先生、ちょっと固いなぁ。もっと砕けた話し方で構わないからね」
「えっと、はい。じゃなくて、うん……?」
「ふっ、あはは、まぁ追々でいいからさ」
杏咲の返しに、透はクスクスと笑う。少し気恥ずかしくなり視線を落とした杏咲は、透の手元に桶があることに気づいた。
水が張られたその中には数枚の衣類らしきものが入っている。どうやらここで洗濯をしていたらしい。
「全部手洗いで洗濯しているんですか?」
もしかして、妖の世界には洗濯機がないのだろうか。町並みは江戸時代を彷彿とさせるような古き良き町並みといった雰囲気だったし、電化製品が普及していないと言われても納得はいく。でも――全て手洗いとなると、中々に骨が折れそうだ。
しかし、そんな杏咲の杞憂は外れたようだ。透は笑いながら首を横に振る。
「洗濯機もあるにはあるよ。ただ、汚れがひどくてね。此処にある洗濯機は旧型のものだから、中々綺麗にならなくてさ。まぁ手間ではあるんだけど……手洗いした方が綺麗になるんだよね」
杏咲は再度視線を落とした。よく見れば透明な水は薄茶色に濁っている。
桶の横にあるかごの中にはまだ衣類が入っているようで、積み上げられた一番上に置いてある着物には多分ケチャップであろう、真っ赤な染みが付いている。
これは確かに――手洗いの方が汚れも綺麗に落とせるのかもしれない。
「伊夜さんが新型の洗濯機でも買ってくれれば、俺ももう少し楽が出来るんだけどなぁ」
透が呟く。杏咲が自身の背後にいるであろう伊夜彦の方に振り返れば、その美しい顔は不自然に斜め上を向いている。
「あ~っと、それじゃあ俺は店の方に行ってるからな。杏咲、頑張れよ!」
からりと笑った伊夜彦は、そのまま背を向けて本殿の方に行ってしまった。
「あ、また逃げられた」
透が唇を尖らせてごちる。
杏咲がやって来るよりも前から、このやりとりは恒例となっているようだ。
「あの、もしかして此処の経営って……金銭的に厳しい状況なんでしょうか?」
「え? ……あぁ、違うよ。伊夜さんが面倒くさがってるだけ。近いうちに買ってもらう予定だから、期待してて」
節制を心掛けた方がいいのではないかと心配する杏咲に、透はにこりと笑みを返す。
――どうやら、ただ単に伊夜彦が面倒くさがったり忘れたりしているだけで、経営に困っているわけではないらしい。
杏咲はほっと安堵の息を漏らす。そんな状況で雇ってもらったのだとしたら、心苦しいと思ったからだ。
小さくなっていく伊夜彦の背中を見送った透と杏咲は、離れの縁側から屋敷に上がる。
「杏咲先生、履いてきたスニーカー持ってきてくれる? 離れの玄関に置いておこう。そこの軒下に下駄が何足か置いてあるから、庭に出たい時は好きに使ってね」
「分かりました」
「とりあえず、これから杏咲先生に寝泊まりしてもらう部屋に案内するから、まずは荷物を置いてもらって……そうしたら、離れの中を案内しようかな。それから業務内容についても詳しく説明するね。昨日はお使いだけ頼んじゃって、その後話す時間もなかったしね」
「はい、よろしくお願いします」
玄関に靴を置き、これから一か月寝泊まりすることになる部屋まで案内してもらう。
杏咲の部屋は、廊下を進んだ先の突き当りを左に曲がり、一番奥に位置する部屋だった。
六畳程度の和室には文机と座椅子に、小さな和箪笥と鏡台まで備え付けられている。端の方には布団が一組畳んで置いてあった。
「こんな素敵な部屋を使わせてもらっていいんですか?」
「うん。元々空き部屋で、家具も置いてあったものだから。そこの鏡台なんかは伊夜さんが本殿の方から運ばせたみたいだけど」
――後で伊夜さんにも、お礼を言わないといけないなぁ。
杏咲は伊夜彦への感謝の気持ちを抱きながら、持ってきたボストンバッグを部屋の隅に置いて、先を歩く透の後を付いて行く。
「ここら辺の部屋は皆の私室になってるんだ。杏咲先生の隣は玲乙だよ。で、火虎、影勝、柚留って形で年長順に並んでる」
「子どもたち、一人部屋なんですね」
「うん。あ、でもあとの四人は二人部屋だよ。あっちの右側に進んだ先が年少組の部屋。手前から十愛と桜虎、吾妻と湯希の部屋で、空き部屋二つを挟んで一番奥が俺の部屋ね。何かあったらいつでも来てくれていいから」
「分かりました。……あれ、そういえば子どもたちはどこにいるんですか?」
「各々自分の部屋で勉強したり本を読んだり、好きなことをして過ごしてるんじゃないかな」
そう言って足を止めた透は「ね、柚留いる?」と一つの部屋に向かって声を掛ける。
「う、うん。いるよ」
部屋の中から顔を出したのは、白藍色の髪をした色白の男の子。
杏咲と視線が合うと、小さく頭を下げて「こんにちは」と挨拶をする。少し控えめな微笑みが、どこか庇護欲を抱かせる。
「こんにちは。柚留くんは何をしてたの?」
「ぼくは、本を読んでいました」
「そっか。本が好きなの?」
「はい。好き、です」
「そっか。私も本を読むの、好きだよ。一緒だね」
杏咲は膝を折り曲げて、同じ目線で話す。
少し人見知りの気もあるのか、近くなった距離に俯き気味に答える柚留だったが、杏咲の口から本好きであることを知ると、嬉しそうに口角を緩めた。
「今度面白い本があったら教えてくれるかな?」
「えっと……はい」
「ふふ、ありがとう」
杏咲に小さく頭を下げた柚留は「それじゃあぼく、戻るね」と透にも声を掛けて、自身の部屋の中に入っていった。
柚留と別れた杏咲と透は、並んで廊下を歩く。
「杏咲先生なら、子どもたちともあっという間に仲良くなれそうだね。よかった」
「そう、ですか?」
「うん、そうだよ」
「……だったら、嬉しいです」
「ほら、此処って女の人がほとんどいないからさ。子どもたちの面倒を見るのだって基本は俺だけだし。だから……あの子たちも嬉しいと思うんだ。やっぱり子どもって、お母さんが大好きでしょ? でもあの子たちは……母親と気軽に会える環境にいないからさ」
――寂し気な、笑顔。
杏咲は透の横顔を見て、そう感じた。しかし隣に立っていた透が一歩前に出たことで、その表情は見えなくなってしまう。
「よし、それじゃあ他の部屋を案内するね」
そして、足を止めて振り向いた透の顔からは、微かな翳りはすっかり見えなくなっていた。




