ふにふには正義? (第九章後/夕食時のひと時)
それはとある日の、夕食時のことだった。今日の献立は、ほかほかの白米に油揚げと豆腐の味噌汁。サクサク揚げたてのジューシーな唐揚げと、ほくほくクリーミーなマッシュポテトだ。
皆で机を囲んで「いただきます」をして食べ始めて直ぐ、杏咲の目の前にある皿がいつもと違うことに気づいたのは、透だった。
「あれ? 杏咲先生、それだけしか食べないの?」
「え? ……あ、はい! あまりお腹が空いていないので」
「この前、俺には饅頭食いすぎるなって言ってたのに、アンタが食べ過ぎたんじゃないのか?」
「あはは……今度から気をつけないとね」
杏咲の斜め前で揶揄うような笑みを向けてくる火虎に、杏咲はその言葉を否定することなく苦い笑みを返す。しかし、杏咲は別に、お腹が空いていないわけでも、饅頭を食べ過ぎてお腹がいっぱいになったわけでもなかった。
(これからは少しずつ、量を減らすようにしないと……)
杏咲が食事量を減らすこと――詰まるところダイエットを決意したことには、きちんとした訳があった。時を遡ること数時間前。一緒に遊んでいた吾妻と湯希からの一言が、杏咲に多大なるダメージを負わせることになったのだ。
***
「杏咲ちゃんは、ふにふにやからな!」
「……え? ふ、ふにふに?」
杏咲と吾妻と湯希の三人で折り紙遊びをしていた最中のこと。
吾妻の口から飛び出た“ふにふに”というワードは、杏咲に衝撃を与えた。
「おん! ふにふにしてて、やわらかいやろ」
「ふにふに……」
吾妻が杏咲にぎゅっと抱きついた。
そして吾妻の言葉を復唱した湯希が、吾妻と同じように、杏咲に控えめにくっついてくる。その小さな掌は、杏咲の腹部にぺたりと触れていて。
(ふ、ふにふに……確かに最近、皆と一緒に食べるご飯が美味しくて、少し食べ過ぎてたかもしれないけど……)
杏咲は自身の脇腹をそっと摘まんでみた。そして、自分でも気づかないうちにぶくぶくと肥えてしまっていたのかもしれないと気づいて、小さなショックを受けた。
子どもたちの前だったので、何とか表情に出すことは抑えたが――この時、杏咲は決意したのだ。ダイエットを始めよう、と。
「――でもやっぱり、それだけだと後でお腹が空くんじゃない?」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
心配してくれているらしい透に、杏咲は控えめな笑みを返して味噌汁を啜った。薄味だが出汁がきいていて美味しい。
「確かだいえっとってやつ、するんだろ?」
ダイエット宣言をするのも気恥ずかしく濁していたというのに、斜め前で同じように味噌汁を啜っていた火虎が盛大に暴露してしまった。
台所で「ダイエット、頑張らないと……」と漏らしていた杏咲の独り言を、摘まみ食い目的で忍び込んでいた火虎はばっちり耳にしていたのだ。
「ダイエット? ……むしろ杏咲先生は細すぎるくらいだと思うし、そんなことする必要ないと思うけど」
「うっ……いえ、最近ついつい食べ過ぎていたので……確実に太ってると思います」
しょんぼり肩を落とす杏咲に「まぁ女の人って、そういうの気にするもんね」と透は微笑んだ。二人の話を聞いていた十愛は「だいえっとってなに?」と透に質問する。
「ダイエットっていうのは、そうだなぁ……痩せるために食べる量を減らしてみたり、運動をしたりして、可愛くなるために頑張ること、かな」
「え! 杏咲、やせたいの? ……なんで?」
十愛からの純粋無垢な質問に、杏咲は言葉を選びながらも、正直に答えを口にする。
「えっと、最近たくさん食べすぎちゃってね。太っちゃったんだ」
「えっ、杏咲、ぜんぜんふとってないじゃん!」
「んー、そうかなぁ」
「そうだよ! それに杏咲はかわいいから、だいえっとなんてしなくてもだいじょうぶだよ! ねっ、桜虎」
「っ、な、なんでオレさまにきくんだよ!」
「だって杏咲、かわいいでしょ?」
「……ま、まぁ、かっ……、し、しらね~よ!」
どもった末にシャウトした桜虎は、十愛と杏咲からぷいっと顔を背けて、茶碗に入った白米を口の中にかきこむ。けれど勢いよく詰め込み過ぎて噎せてしまい、火虎に背中を擦られていた。
「あはは、ありがとう。でも、ほ~んの少し食べる量を減らすだけだから、大丈夫だよ」
子どもたちの前で食事量を減らすだなんて、手本となるべき存在としてはあまりよろしくないことだと思うけど……バレてしまっては仕方ない。杏咲は“いつもよりほんの少し量を減らすだけ”と強調して伝える。
「……ですが、これから暑くなりますし、しっかり食べないと夏バテにも繋がるんじゃないですか?」
玲乙からの冷静な指摘に、杏咲は僅かにたじろいだ。そこに柚留や吾妻からの心配そうなまなざしも突き刺さってきて、杏咲の決心は少しずつ揺らいでいく。
「ぼくも、先生にはずっと元気でいてもらいたいので……その、だいえっとをする必要はないんじゃないかなって思います」
「せや! 杏咲ちゃんもいっしょに、いっぱいたべよ!」
杏咲は正直、子どもたちにここまで気にしてもらえるとは思ってもみなかったので、驚いてしまった。
「そうだよね。……うん、それじゃあ量を減らすのは止めようかな」
子どもたちがここまで言ってくれたのだ。食事量を減らすのは難しいにしても、間食を止めるとか、子どもたちの見ていないところでこっそりダイエットをする方法はいくらでもある。
「それなら、はい。俺の唐揚げ、一つあげるね」
「……えっ、いや、」
「今日の分はもうないでしょ? よかったら俺の分、食べて」
杏咲が遠慮する前に、透はまだ手を付けていなかった唐揚げを杏咲の皿の端にそっと置いた。それを見ていた吾妻は、何故か目をきらきら輝かせて、食べやすいように半分に切ってある唐揚げをスプーンでそっと掬い上げる。
「杏咲ちゃん! おれのぶんも、いっこあげるな!」
「あ、ありがとう。でも、それだと吾妻くんの分が少なくなっちゃうから……」
杏咲がやんわり断ろうとするが、吾妻は聞く耳を持たず杏咲の皿に唐揚げをのせて、満足そうに笑っている。
「それじゃあ、オレの分もやるよ」
「……えっ」
「そ、それじゃあぼくも……!」
「いや、」
「それじゃあおれのも杏咲にあげるね!」
「ま、待って……」
透の行為を見て真似をした吾妻から始まり、火虎、柚留、十愛と、子どもたちは次々に杏咲の皿に唐揚げをのせていく。
唐揚げとは別に、いつの間にか皿の端っこに置かれていたトマトは、多分影勝が置いたものだろう。影勝は肉も好まなければ、トマトや茄子などといった野菜も苦手だからだ。
「えっと、もう大丈夫だから……! 皆、ありがとう」
最後に玲乙までもが唐揚げをのせてきたので、杏咲は唐揚げが山盛りになった皿を持ち上げてストップを掛けた。
「わぁ、杏咲ちゃんのおさら、からあげいっぱいやなぁ!」
「すっげー、おっきいやまみてぇ!」
杏咲の皿の上を見て、吾妻や桜虎などは純粋に「すごい!」とはしゃいでいるようだが――可笑しそうに笑う透の表情に揶揄いの色が含まれていることに、杏咲は直ぐに気づいた。
「……ますます太ったら、透先生のせいですからね」
「あはは、ごめんごめん。でも杏咲先生はむしろ、もっと太った方がいいくらいだよ」
杏咲にジト目で見られても、透はクスクスと笑うばかりだ。これは全然反省していない。
「でも本当に、杏咲先生は今のままでも十分に魅力的だからね。痩せる必要なんてないっていうのは、本心だよ」
「……あ、りがとうございます」
お礼を言う杏咲の頬が薄っすら赤く染まっていることに気づいて、透はまたクスリと笑みを漏らした。
――そして、翌日。透から杏咲が食事の量を減らしていたという話を聞いた伊夜彦が、何故か高級な肉や新鮮な魚を大量に買い込んできた。
「杏咲は痩せる必要なんてないだろ。むしろ細すぎるくらいだ。もっと食べた方がいい」
そう言って、事あるごとにお菓子やらまで買い込んでくるようになったものだから、間食を止めようだなんて思惑も、結局は叶わなかった。
ダイエットをするなら食事制限は止めて、子どもたちとたくさん遊んで運動することに徹しようと、杏咲は早々に諦めることになったのだ。