第一話
双葉杏咲二十五歳。女。職業は保育士――でした。
杏咲は地元の有名な神社に参拝にきていた。つい先日、五年間務めていた保育園を退職した為、次の就職先が無事に決まるよう願掛けをするためだ。
平日の早朝ということもあり、境内には疎らに人がいるだけ。いつもより多めにお賽銭を入れて、いつもよりじっくりと時間をかけて神様にお祈りをする。
――どうか、無事に次の就職先が決まりますように。できることなら……また子どもと関われるような仕事がしたいです。
二分以上は経っただろうか。杏咲は後ろに参拝客が居ないのをいいことに、暫くその場に佇みぼうっとしていた。
この神社は地元ということもあり、杏咲は幼い頃から毎年欠かさず初詣にきていた。また仕事帰りや休日にふらっと立ち寄ることも少なくはなかった。杏咲にとっては、いつきても心が安らぐ落ち着ける場所なのだ。
くるりと拝殿に背を向けて石段を下りながら、静かに息を吐き出して、思いきり吸い込む。そうすれば境内を囲むようにして生い茂る緑の匂いが胸いっぱいに広がるような心地がして、杏咲は人知れず笑みを浮かべた。
ここはいつきても変わらないなぁ、と。
ここ山彦神社の境内には、社殿の他にもロープウェイ乗り場に鹿や鳥といった動物を飼育している場所、ちょっとした休憩スペース等も設けられており、敷地内は広い。折角きたのだし少し境内を散歩してから帰ろうかと思案していた時だった。
――人が、倒れている。
ぱっと目を引く珍しい白髪に、黒い着物を着た男性が大木の下で蹲るようにして倒れているのだ。
杏咲は慌てて駈け寄った。男は瞳を閉じたまま、眉を顰めて苦しそうな表情で呻いている。
具合が悪くなったのだろうか。そう思って男の肩をそっと揺する。
「あの、大丈夫ですか?」
杏咲の声にゆっくりと瞼を持ち上げた男。杏咲の姿を捉えるや否や、形の良い唇を小さく震わせる。
「……は……が……」
「え? ……もう一度言ってもらってもいいですか?」
男の声が聞き取れず顔を近づければ、今度ははっきりと耳に届いた言葉。
「は、腹が……減った……」
やっとの思いで絞り出したのだろう、途切れ途切れに告げられたその言葉の意味を理解するまで、杏咲は数秒の時間を要した。まさか空腹で倒れていたとは思っていなかったからだ。
とりあえずこれで少しは足しになれば良いのだけど、と鞄の中からコンビニのパンと飲み物を取り出す。今日は食欲がなく朝食を抜いていたため、後で食べようと思って買ったものだ。
杏咲が「これでよければどうぞ」と差し出せば、目の色を変えた男は「すまないな。恩に着るぞ」と言いあっという間に平らげてしまった。
見事な食べっぷりに杏咲が呆然としていれば、ペットボトルのお茶も一気に飲み干した男は息を吐いてカラリと笑う。
「ふう、助かったぞ。腹が減り過ぎて死ぬかと思った。……改めてお嬢さん。助けてくれてありがとう」
ふわりと笑う男の表情にどきりとしながら、首を振って謙遜する杏咲。
「いえいえ、大したことはしていないので。気にしないでください」
「いやいや、俺にとっては十分に大したことさ。お嬢さんがいなければ、俺はこのまま行き倒れていたかもしれないからな」
神社で空腹になり行き倒れてしまった人なんて聞いたことがないけれど……もしかして、この男は神社の関係者なのだろうか。神職たちが着ている装束とは少し装いが違うが、着物を着ているし。だけど着物姿で参拝にきている人も時々見かけるし、そうとは限らないだろう。
杏咲が疑問をぶつけるよりも早く、男が口を開いた。杏咲は開きかけた口をそっと閉じる。
「お嬢さんは参拝にきたんだろう? 今日は仕事は休みなのかい?」
「いえ、実は……つい先日退職したんです」
「ほう、そうなのか。……理由を聞いてもいいか?」
会ったばかりの男に仕事を辞めた理由を話す必要などないのだが――男の纏う穏やかでいてどこか懐かしいような、不思議な空気感がそうさせるのか。
気付けば杏咲は、辞めた理由をぽつりぽつりと口にしていた。
「私、保育士をしていたんです。子どもが大好きで、保育士って仕事に凄くやりがいも感じていて……でもそれと同じくらい、辛いこともあって」
「ああ」
「……残業が当たり前の毎日とか、休日も持ち帰りの仕事があってゆっくり休む時間もとれなくて。それに女だけの職場ってこともあって、陰口の言い合いなんかも日常茶飯事で。それに……」
――いや、この話は止めておこう。これは私自身の問題であって、辞めた理由になんてならない。……してはいけないものだから。
「……えっと、まぁこんな感じで、少しだけ疲れてしまって。あはは、すみません。こんな愚痴みたいなことをお聞かせしてしまって」
杏咲の話を静かに聞いていた男は、小さく首を振る。
「いいや、お嬢さんがそれだけ溜めこみながらも頑張っていたということだろう。何も恥じることなどないさ」
男の言葉からは杏咲を気遣うような、労うような優しさが感じられた。
喉の奥から熱い何かが込みあげてくるのを感じ、杏咲はグッと唇を嚙みしめる。会ったばかりの男の前で涙を見せることには、流石に抵抗や気恥ずかしい思いがあったからだ。
男はどこか思案気に空を見上げてゆっくりと瞼を下ろした。かと思えば数秒して、一人納得した様子で「ふむ」と頷く。
「なぁお嬢さん。良ければお礼をさせてくれないか?」
「お礼、ですか?」
「ああ。仕事をしていないということは、この後時間もあるんだろう?」
「まあ、時間はありますけど……」
暇をしているというのは事実だが、こうも断定的な言い方をされれば多少は不快感を抱いてしまいそうなものだ。しかし意外にも、杏咲にそういった類の感情は生まれなかった。嫌味を感じさせない物言いは、やはり男の纏う独特の空気感がそうさせるのだろう。
「よし。そうと決まれば善は急げだ。付いてきてくれ」
男は立ち上がって身体に付いた土を払ったかと思えば、楽し気な様子で歩き出す。
――時間があるといっただけで、お礼を受けるとは言っていないのだけど。
そう思いながらも、杏咲はひとまず男の後を追いかけることにした。
追いついて隣に並べば、男は杏咲の顔を見て微笑む。
「俺は料亭……のような所で、まぁ店主のようなものをしていてな。さっきのぱんと飲み物のお礼に、とびきり美味い飯を御馳走しよう」
「え!? そ、そんな悪いですよ……!」
たかが数百円のお礼に料亭の御馳走だなんて、対価が釣り合わなさすぎると遠慮の姿勢を見せる杏咲だったが、男に引く様子は見られない。
「遠慮なんてしなくていい。さぁ行くぞ」と杏咲の右手を掴んでずんずんと歩みを進めてしまう。
見かけによらず強引な人。それなのに、不快感や疑心といった類の感情が一切生まれてこないのは何故なのだろうか。
杏咲は自身の手を引いて歩く男の横顔をそっと見つめた。細身ですらっとした出で立ちで、整った顔をしている。
――明らかに怪しいんだけど、でもこの人……悪い人ではない気がするんだよね。
他者が自分をどう思っているのか、人よりも少しだけ気にしすぎてしまう気のある杏咲は、その分、他者の感情の機微を読み取ることが得意だった。
また保育士をしていた際、保護者対応で培われた対人スキルから、人を見る目はある方だと自負している。
自分の目を信じることにした杏咲は、黙って付いて行く選択肢を選ぶことにした。
また過去の経験から、男性に対して僅かに苦手意識を持っていた杏咲だったが、この男性に対しては――どうしてか、そんなマイナスな感情が全く湧き出てこないのだ。それも素直にお礼を受け取ることにした理由の一つかもしれない。
手を引かれるがままに本殿を抜けて石畳の道を真っ直ぐに進んでいけば、暫くして大鳥居の前に辿り着いた。そのまま鳥居の下を潜るのかと思えば、男は直前で右に曲がり手前の細道へと入っていく。
「え? こっちに行くんですか?」
「ああ」
そうして男が立ち止まったのは、十数歩ほど進んだ先。珠玉の橋の前だった。
珠玉の橋は、この神社に古来よりあると云われている橋だ。江戸時代あたりだっただろうか、大火があった際もこの橋だけは難をまぬがれたらしい。神様が御渡りになると云われているご利益のある橋なのだと、幼い頃祖母に教えてもらった記憶がある。
神社にきてもこの小道を通ることなどほとんどない杏咲は、久々に間近で橋を見て幼い頃のことを思い出していた。
「そういえば、まだお嬢さんの名前を聞いていなかったな」
「……あ、そういえばそうですね。私は双葉杏咲といいます」
「杏咲か。良い名だな。――では杏咲。こっちへおいで」
男は珠玉の橋の手前にある、石で舗装された地面へと足を一歩踏み出した。その場所から、こちらへくるようにと杏咲に手を差し伸べてくる。
しかし珠玉の橋は実際に渡ることはできない。ただ参拝者が拝めたり眺めたり、記念に写真に収めたりするためだけにあるものだ。
「えっと、どこに行くつもりですか? そこから先には行けませんけど……ふふっ。もしかして、その橋を渡るつもりですか?」
自身を揶揄っているのだろうと踏んだ杏咲は、同じように冗談で返すことにした。きっと男は笑って、「すまん、冗談だ」なんて返してくるのだろうと。
――そう、予想していたのだけど。
「ああ、そうだ。料亭はこの橋の先にあるからな」
「……え?」
それは一体どういうことなのか。杏咲が意味を訊ねようとすれば、男は待ちきれなかったのか杏咲の手を自ら引いてそちらへと導いた。
「――杏咲。少しの間だけ目を瞑っていてくれ」
男の掌が杏咲の目元をそっと覆う。瞬間、周りを光で包まれたような感覚。
これから何が起きようとしているのか、少しだけ怖くなった杏咲は男の着物の袂をぎゅっと握りしめた。
そんな杏咲に気付いた男は、空いた手で杏咲の頭を優しく撫でる。
「大丈夫。何も恐れることなどないさ」
そんな男の声が杏咲の耳に届いたのと、淡い光が弾けたのは――多分同時のことだった。
――静寂。
その場に残されたのは、現世から消え行く二つの影をじっと見つめていた野良猫だけだったと云う。
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