束縛領主から逃れるため、挑むは直角の急坂にサメの大軍!? 奴隷の彼女は困難を乗り越え、外の世界に足を踏み出せるか!!
シワ一つないキングサイズのベッドに、一人の少女が座っていた。黒い髪は、腕輪をかすめるくらい長く、艶々としており、白磁色の肌と首につけられた鎖は、ちぐはぐなようで、蠱惑的な魅力を引き出している。
絹のネグリジェをまとう彼女は、そういう目的で買われた女性だった。
家族に羊と引き換えに売られ、悪逆非道で名高い領主に安値で買い叩かれた、哀れな女性。
しかし、彼女の青く澄んだ瞳は、奴隷には思えぬほど気高く、美しかった。
彼女は首輪と腕輪に魔法をかける。厳重な鎖は、あっけなく外れた。
手首をこすり、腕を撫で、彼女は立ち上がった。
そして、彼女は駆け出した。
――自由のために。
○○○
「先日まで降っていた雨は止み、ここ、エスケープ街の空は雲一つなく青空が広がっています。まるで、今大会の開催を祝福しているようです。
さあ、今回も始まりました、『第百三十五回 逃走杯』! 解説はこの私トー・ソーと、隣国トナーリでアイドルとして活躍中のケープちゃんにおこしいただいております」
「アイドルのケープですっ!よろしくお願いシマスっ!」
「ケープちゃんは、『逃走杯』の存在自体はご存じでしたか」
「話だけ聞いたことがありますけど、実際こうして見るのはハジメテです!」
「ケープちゃんやラジオをお聞きの皆さんのために、『逃走杯』の歴史をお伝えしたいところですが、彼女はそれを許してはくれない! さっそく動きがありました。少女の目の前には、ななななんとっ! 高さ5メートル、巨大な壁! 紐はありません。自らの足で登るしかありません!!」
「ええー! こんなのムリ! 私なら絶対できないです!」
「それをやってのけるのが、彼女だと信じていますが、果たしてこの壁を乗り切れるのか……!」
「トー・ソーさんったら、何をおっしゃいますか! さすがにムリですって! ほら、あの子も壁に近づいて呆然と見上げてますよ」
「いえ、あれは戸惑っている訳ではありませんよ」
「言われてみれば、どちらかというと壁をチェックしてる……? あっ、見てくださいっ! ゆっくり壁から離れていきますよ!」
「そしてーっ! 走り出しました!」
「す、すごい!! 壁の上を、壁の上を走ってる!? トー・ソーさん、あれがニンジャ!? ニンジャなんですか!?」
「一説には、彼女の祖先は東洋の出と言われています! 美しい黒髪は東洋の神秘! さすがニンジャ! さすが東洋の神秘! 高さ三メートルの壁を、軽々と乗り越えました!」
「スゴすぎる、スゴすぎます!」
「安心するのはまだ早い! 安心するのはまだ早いです。壁を上った先には、大量の落とし穴が待ち受けていました!」
「お、落とし穴!? 下にクッションひいていますよね……!」
「クッションはありません!落ちたら地面!打ち所が悪ければ、怪我だけではすみません。しかし、さすが百三十五回乗り越えてきただけある!落とし穴を軽々飛び越えています!」
「もうスゴすぎて、映画見てるみたいです……」
「水溜まりでも飛び越えるような、軽やかに、ウサギのように飛ぶ少女。
そもそも、彼女は一体何者か、なぜ逃げているのか。ケープちゃんや初めてご覧いただいたリスナーさんのために、『逃走杯』の開催経緯をご紹介しましょう」
「こ、このタイミングで解説をしてくれるんですね……。ヨ、ヨロシクオネガイシマース」
「始まりは、まだ奴隷を持つことが禁止されていなかった、三年前のことでした。
エスケープ街の領主に買われた、一人の可憐な少女がいました。
奴隷としての生活は決して楽ではありません。身を粉にして、いえ、身を塵にして働けども、働けども、着る服さえろくにもらえません。
彼女は決意しました。領主の手から逃れることを」
「すごい……! かっこいいですね! 同じ女性として憧れます!」
「私もついつい尊敬してしまいますね。しかしこの領主、中々のくせ者で、少女を逃がすまいと幾重にも罠を仕掛けたのです」
「アラ……。落とし穴、みたいな可愛らしいワナではありませんヨネ……?」
「残念ながら、違います。普通の少女なら、決して生きて帰れない、いや、大の大人さえも命を落としてしまう罠の数々でした。
ですが、彼女は普通の少女ではありませんでした。なんと、罠をすべてクリアし、外に出ることに成功したのです!」
「ええっ! スゴいですねっ! あれ? ですけど、彼女は……」
「ええ。ケープちゃんの言う通り。自由の身となったはずの彼女は、領主の説得に応じ、なんと、帰宅しました」
「それは……。私、アイドルなんでよくわかりませんが、お仕置きはされなかったんデスカネ?」
「詳しいことはわかりませんが、おそらくなかったのでしょう。そうでなければ、二度目、五度目、十度目、百度目と逃げ出せるはずがありませんからね」
「はー……。そうなんですね……」
「さあさあ、話もそれくらいにしましょう。動きがありました」
「落とし穴ゾーンを抜けましたね! 次は……。えっ! あ、あのせびれはなんですか! ほら、見てください! あれ!」
「もう、ケープちゃんったら。これはラジオですから、『アレ』では分かりませんよ」
「いや、なんというかっ! なんというか、く、黒い三角形の、おびれ……! あっ、イルカさんですかね!? そうですよね!!!」
「残念ながら違います。池のなかで、板が浮かんでいます。ゆらゆらと揺れ、普通の人でしたら足を踏み出した瞬間に池にドボンでしょう。ですが、池に落ちた途端、待ち受けているのは……!」
「……サメ……!」
「ただのサメではありません。情報によりますと、血ノ海域と称される池からやって来たサメです」
「血ノ海域……。プランクトンで赤くなってるとかですよね! そうですよねトー・ソーさん!!」
「残念ながら、こちらも違います。その海域に入ってしまった魚や海鳥、人間も例外ではありません。船に乗っていても関係ありません。全ての生物は、真っ赤な血を流して、巨大なサメに食らいつかれるのです」
「そんな危ないサメが、あの池に……」
「これは盛り上ってきました! さあ、果たして少女は人食いサメの池を乗り越えられるか……。おおっと!? 少女が駆け出しました! しかし、走る方向が板がある場所とは大きくずれていますっ!」
「わあ! 池に飛び込んだ!? 飛び込みましたよ!?」
「まさかまさかの自決でしょうか……! いや、違います! 見て下さい! サメの背中を踏み台にして走っています!」
「あんなやり方もアリなんですか!?」
「私も予想できませんでした。ですが、彼女にとっては人食いサメもただの土台! 自由のための道具にすぎない!!」
「サメたちもあの子の足を噛みつこうとしているのに、あんなひょいひょい避けるなんて……!」
「噛みつかれる寸前に、ジャンプをして避けているようです! その様はまさにバレリーナ! 皆様に直接見ていただけないのが残念で仕方ありませんっ!」
「何度も言ってしまいますが、本当にムービーみたいですっ! 本当にリアルだって信じられませんっ!」
「少女は汗さえも流さず、難なく血ノ池ゾーンをクリア致しました!!」
「彼女はスーパーマン、いえ、スーパーウーマンです!!」
「これ以上のトラップはこの世に存在するのか! しかし、出口まで半分もあります! 人食いサメ以上のトラップが出てくるかもしれません!!」
「……み、みてください!! あの子の目の前に大きな動物がいますよ!」
「言っている側から動きがありました。おおっと、あれは……! ワニのような鱗に尻尾、ライオンのような鋭い牙、翼はコウモリのようですが、もっと強固な翼です。その正体は……!」
「ドラゴン……!?」
「正解です! 火を吐き、爪で切り裂き、歯で食らいつく。神話の時代の生物です」
「ほ、本物ですか!? だって、ドラゴンはもう滅んだとスクールで教わりましたよ!?」
「確かに、私もそう聞いています。ですが、ドラゴンは賢い生き物です。人里離れた場所に隠れすんでいたのでしょう。そして、領主がどこからか連れてきたのです。少女のために、少女を逃がさないために、わざわざ連れてきたのです!!」
「ドラゴン連れてくるくらいなら、もう諦めてあの子を逃がしちゃえばいいんじゃないですか!?」
「そうはいかないのがエスケープ領主です! 神話の生物の力を惜しみ無く使い、彼女を妨害いたします……
番組の途中ですが、臨時ニュースです。ドラゴンの出現により、エスケープ街全域に避難警報が発令致しました。
エスケープ領主邸近くにお住まいの方は、出来るだけ遠くへ避難してください。
遠くにお住まいの方も、部屋からは出ないよう、自分の命を守る行動をお取りください。
ドラゴンは大変危険な生物です。
伝説によりますと、息を吐けば一帯は火事となり、足踏みをすれば大地震が起きると言われています。
リスナーの皆様。大変危険ですので、ドラゴンには絶対に近づかないでください」
「トー・ソーさん、私たちも逃げますよね! すごく近いですものね! 目と鼻の先ですものね!」
「私はここで実況を続けます」
「なんですって!? 聞き間違えですよね!? そうですよね!?」
「私は残らせて頂きますっ! 私は実況に命を懸けています。ここで死んでしまっても、それも本望です!!」
「ええ!? マジなんですね!?」
「ああ、あなたは逃げても構いませんよ。他国のアイドルに無理強いをする気はありません。アイドルは可愛らしさを追い求める仕事ですからね。こんな過酷なことをさせられませんよ」
「っ、――あなた、もしかしてアイドルを誤解されております?」
「……え?」
「私はただの可愛らしいだけのアイドルではありませんっ! ドラゴンごときに尻尾巻いて逃げません!!!」
「……それは失礼致しました。あなたの覚悟、しかと私の胸に、そしてリスナーの皆様の胸に刻まれることでしょう。アイドル魂、とはこのことでしょう。それでは、ケープちゃん。……いや、ケープさん。実況を続けましょう」
「ええ! よろしくお願いします! さすがのあの子も、ドラゴンにはビックリしているみたいです。綺麗なお目々がまん丸になってます」
「歴戦の戦士でさえ、一人で対峙してはいけない生物、ドラゴン。
歴史上では、優れた軍事力を誇った王国、『スンゴクツヨヨ国』の軍隊千人がたった一匹のドラゴンに敗北したと言われています。
たった一人の少女。
それも、戦闘訓練の一つも受けていない少女です。
いかにして戦うか。全国民が注目する勝負です。
少女が動きました。ドラゴンの背後に回ります。そして、……おおーっと!!! なんと!! ドラゴンの背中に飛び乗りました!!」
「ドラゴン、嫌がっています!! 翼を広げて、飛びました! 空に飛びました!!」
「背中に乗っている少女は無事でしょうか! 私、視力が悪くてよく見えません!」
「私に任せてください! 視力は自慢ですので! うーんっと、見えました! 乗っています! しがみついています!」
「落とされないように、踏ん張っているんですね!」
「いえ、そうではありません! クライミングしています」
「な、なんですって!」
「頭の方に上ってます! 角、でしょうか。そちらに向かっているようですが……」
「えー、ドラゴンに関する情報が入りましたっ!これも運命でしょうか。私たちの目の前にいるあのドラゴンは、先ほど私がお話しした、数多の軍隊を滅ぼしたドラゴンでございますっ!!
最強のドラゴンと名高いドラゴンでございますが、一つ、弱点があります。その弱点とは、頭の上に刺さった槍でございます。ケープさんが『角』だと話していた突起は、おそらく槍でしょう」
「あー、確かにそうかもしれません。槍に見えますっ! ですが、どうして槍が刺さっているんですか?」
「こちらも、先ほどの伝説が関わっております。
軍隊を滅ぼしたドラゴンですが、さすがに無傷とはいきませんでした。
兵の一人は、死の間際、一本の槍を放ちました。槍は鱗と鱗の間、深く深く突き刺さりました。なんと、脳にまで届くほど、深く突き刺さったのです。
そんなに深く刺さってしまうと、ドラゴン自身で抜くことはできません」
「つまり……。あの槍を抜けば、倒せるってことですね!」
「しかし、最大にして最難関な問題が一つだけございます。槍が刺さったのは、百年以上も前です。果たして、常人の力で槍が抜けるのか否か……!」
「っ! 少女がドラゴンの背中に乗って立ち上がっています! 槍を抜こうとしています!!」
「少女には、ドラゴンの弱点は伝わっていないはずです。しかし、少女は直感的に理解したのでしょう。ドラゴンの弱味を、自分が勝てる方法を!!」
「ドラコンも身をよじらせて、少女を落とそうとしています。ぐるりと一回転! からの、急降下・急上昇!! 火を吹きました!!
こちらにも火の粉が飛んできています。ドラゴンの背中にのる彼女は相当熱いでしょう!しかし、彼女は諦めない!がっつりとしがみついています!!」
「エスケープ街も熱く、実況席も熱くなってきました!ケープさん、槍はどうですか。抜けそうでしょうか。」
「動いていないように見えます。さすがのあの子でも厳しいのかも……おお!? あの子、槍を両手で持って、グルングルン回りはじめました!」
「回る、ですか? 歩いて、ですよね?」
「そっちじゃなくて、えーっと、そうだ、鉄棒みたいに! 公園で子供たちが鉄棒するみたいにクルクル回っています!」
「なんということでしょう! 空中で、ドラゴンに振り落とされそうになりながら鉄棒!! 恐るべき腕力です!!」
「槍が、段々と抜けて、あー! 全部抜けました! 全部抜けました!!」
「決定的な瞬間を見逃してしまった自分の視力が憎い!! ああ、視力がほしい、せめて望遠鏡がほしい!! 奴隷の少女は、なんと、恐ろしい災厄の象徴、ドラゴンを討ち滅ぼしました!」
「もう色々規定外すぎますね……! おかしすぎる!」
「一節には、彼女は『スンゴクツヨヨ国』の生き残りと言われている伝説の英雄、『ヤバヤバス・ギール』の末裔と言われています」
「ドラゴンが落ちてきますよっ! あの子は大丈夫……でしょうね」
「少女は五十回転して、着地しました。膝もピンっと張っています。芸術点はかなり高いでしょう!」
「あの高さから落ちても余裕なんですね……」
「いやー、今日は中々壮絶でしたね」
「私もビックリしました。スゴイとは聞いていましたが、非難蹴報が発令されるほどの規模とは思いませんでした」
「まさに神回と称しても差し支えないトラップの数々でした。前に火山のマグマを汲んで雨のように降らせた回以上に凄まじい戦いでした」
「マグマもマグマで凄すぎますね……」
「いつもでしたら、あともう一個トラップを設置していますが、さすがに神話生物以上のトラップは存在しないでしょう。今回も、あの少女の勝利で間違いありません」
「なら、例のアレをこの目で直接見ることができるんですね!」
「おや、ケープさんは例のアレをご存じなんですね」
「ええ! 実は、例のアレを見たいな、って思って、この番組のオファーを受けたんです!」
「そうなんですね! 現地の観客たちも、避難警報が解かれて、続々とエスケープ領主邸正門前に集まっています。興奮冷めやらぬ様子です」
「あら、あそこに男性が立っていますよ。あの人がエスケープ領主ですね。へえ、顔が整っている方なんですね」
「女性誌では、『頭脳派の参謀キャラをやっていそう』『仲間にいたら終盤で裏切りそう』と書いてあるほどの、美しく、かつ、冷酷そうな顔立ちです。いつもは無表情ですが、例のアレをするときにはその表情は変わります、が……。おや?」
「どうなさいましたか?」
「いつもと様子が違います。分厚く、歴史がありそうな本を片手に、不敵な笑みを浮かべています」
「話し始めましたね」
「リスナーの皆様に、エスケープ領主の話をお伝えいたします。
『よくぞ、トラップを切り抜けた。今から部屋に戻れば、おとがめなしにしてやろう。どうする? 戻るか?』
と言っています」
「対する少女はたった一言。『無理です』と言いましたね」
「領主は、こう返しました。『ならば、手加減はしない。最終トラップを発動させてもらう』と言っています。領主は本を開きました。兄やら怪しげな呪文を唱えています」
「……何か、何か嫌な予感がする……」
「な、な、な、なんと!? 領主の上空の時空が歪み始めました!? 空が、空が歪んでいます!!
あんなに晴れていた空に、暗雲が立ち込めてきました! 雷が鳴り響き、鳥たちが騒めいています。
おっと、地震です。非常に激しい縦揺れが観測されていますっ!
一体、これはどういうことかっ! 何が起きているのかっ!!」」
「あれは、まさか……!」
「ケープさん、何かご存じなんですか!」
「きっと、あなたも知っているはずです。この言い伝えを。『時空歪ミ、地ガ揺レル時、闇ノ王現レ、世界ガ滅ブ』、と」
「闇ノ王……! 世界を作ったとされる王の一人にして、世界に見切りをつけ滅ぼそうとした王のことですか……!!」
「そうとしか思えません。光ノ王に封印されたと聞いていましたが、まさか、リアルの話とは思いませんでした」
「なんということでしょうっ! 神話の生物ドラゴンだけでなく、創世記の王が出てくるとは思いもよりませんでした……!!
もはや、避難警報も発令されていません。どこへ逃げても、無駄だということでしょう」
「ドラゴンを倒せたとはいえ、さすがに闇ノ王を倒せるわけがありませんって!! 相手は神様ですよ! 無理ですって!」
「無理だと、そう思った瞬間も何度かありました。ですが、少女は全て潜り抜け、屋敷の外に逃げ出すことができました。
今回も、そうなると期待したい! 期待するしかありません!
まさに、全世界の命が、この一局にかかっています。果たして、得られる結末は逃亡か、破滅か。
――少女、動き出しました!!」
「闇ノ王が登場する前に、全てを終わらせるつもりでしょうかっ!」
「闇ノ王に、まっすぐ突っ込んでいきます。いや、待ってください! 闇ノ王に向かって走っていません。エスケープ領主です! 領主に向かって走っています!!」
「そのまま女の子は領主に!、……へ? と、飛びついた!? それに、き、き、き、キス!?」
「しょ、少女はりょ、領主の唇に口づけました。じょ、情熱的な接吻でして、えー、その、えっと……」
「顔赤くなっている暇はありませんよ! ほら、見てください! 少女、キスで領主が気をとられている間に、本を、本を奪いました!」
「あっ、本当です! 奪って、逃げ出しました!!」
「領主も気づいていないようです。ほっぺたを真っ赤にさせていますね。あっ、いま気づいたようです! 顔面真っ青になっています!」
「取り戻そうとしているようですが、少女の足さばきに追い付けていません」
「闇ノ王が出てきました! 三分の一だけ覗いています!!」
「少女は本を開き、何か唱え始めました!」
「その間にも、現地では台風かのごとき風が渦を巻いています。渦の中心は、ここ、エスケープ領主邸っ! 草木も土も、犬も猫もおばあちゃんも、そして我々も風に巻き込まれ、ぐるぐると渦巻いています!
しかし、少女は微動だにしません。一歩も動かず、ただただ真っ黒な髪の毛だけが逆立っています」
「未だ、あの子は呪文を唱えていますね。どういう呪文なんでしょう? 私、魔法はよく分かりません。あっ、闇ノ王が徐々に出てきています! もう半分以上も身体が出てきています!」
「闇ノ王の容姿をお伝えしたいことですが、なんとも実況にしにくい! 泥が固まったような、ガスが凝縮されたような、そんな見た目です! 悔しい、語彙力がない自分が悔しい!」
「元気出してくださいっ! 私もあれはうまく話せませんって!! もうとにかくドーンっ! ガガガッ、バババーッ、って感じです!」
「効果音で表現はラジオの禁句ですが、その表現も正しいと受け入れてしまうような見た目ですっ!」
『全人類の諸君』
「な、なんですか!?」
「今、頭に誰かの声が……!」
『吾輩はお前らが闇ノ王と称するものだ』
「なんとっ! 闇ノ王が私たちの脳に直接語りかけています。……ただいま入った情報によりますと、全ての人間の脳に呼びかけているようです」
『吾輩の仲間になれ。さすれば、命だけは助けてやろう』
「定番の質問を投げかけてきました! さあ皆さま、どう致しましょうか!」
「私はひとまず契約書を確認したいですね」
「さすがアイドル! まずは契約書! 地獄の沙汰も契約書次第! 相手が誰であれ、契約書次第でお断り致します!!」
『――遅い。人間は全て滅んでもらおう』
「おおっと! タイムリミット付きでした! 先に言ってほしかった!」
「ど、どうしましょう!! 私たち、死んじゃうんでしょうか! みんな死んでしまったら、私、誰に向かって唄って踊ればいいんですか!?」
「闇ノ王が手を伸ばしました。そして、そして……!! 闇ノ王の手が……!! ……消えました!!???」
「あれ?! ドウシテですか!?」
「えー、ちょっと待ってくださいね。情報が、情報が入りました。
なんと、あの少女が唱えていた呪文。こちらの呪文は光ノ王が闇ノ王を封印するときに用いた呪文とのことです!!」
「と、いうことは……?」
「闇ノ王がいなくなりました! 世界は、世界は救われたのです!!」
「まさか、そんな、ホントに勝っちゃうなんて……!」
「『逃走杯』史に残る、いや、世界史に残る事件でした!! 凄まじい! 凄まじい戦いでした!!」
「あの子、ホントに奴隷だったんですか!? 実は神様だったりしません!?」
「一説には、彼女は実は女神という説もあります」
「説、多すぎません?」
「それほどまでに、あの少女の出自は謎に包まれております。
さすがに、闇ノ王召喚以上のトラップはないようです。エスケープ領主、膝から崩れ落ちています」
「なら、例のアレが見れるってことですね!」
「そういうことです!! 少女が門から出ました。どこかへ行こうとする少女の行く手をさえぎるように、エスケープ領主が立ちました。
厳粛な表情をしています。
そして、そして……! きました!!!
両膝を地面につけ、両手を地面につけ、頭を地面につけ、叫びました!!」
「戻ってきてください!!!!」
「出ました! 土下座&謝罪!!! 観客からも熱烈な土下座コール!!」
「これが例のアレ、全力土下座謝罪ですね!! わあ、いいものみれた!」
「三年前の流行語大賞を受賞しました、この土下座! 今では土下座Tシャツ、土下座マグカップ、土下座靴下などなどが発咳されています」
「私、実は土下座カーディガンを着てきたんです。ほら、このカーディガン見てください!」
「なんとっ! カーディガンまで発売されていたんですね!」
「この角度がエモくて最高に可愛いんですよ!」
「いやー、私には分からない世界ですね。実況に戻りましょう。少女は一瞬考えるふりをして、『分かりました』と頷きましたっ! これにて、これにて、『第百三十五回 逃走杯』閉幕です!! ケープさん、感想をお願いします」
「ともかくすごかった。あと、人生観が変わったような気がします」
「ありがとうございます! 今回のトラップはいつもよりも凶悪なものばかりでしたが、見事、少女は乗り越えました。
次回は、どのようなトラップが現れ、どう切り抜けていくのか! 今後に期待です。
それでは皆さま、本日はここまで。ありがとうございました! また少女が逃亡したら、お会いしましょう。さよなら!」
「さようなら!!」
〇〇〇
外部の熱狂的な騒々しさとは対照的に、屋敷内は水を打ったような静寂に支配されていた。
少女はベッドに座って、主人たる領主の顔を見上げる。彼は穏やかな表情を浮かべ、少女の手を優しく包み込んだ。
冷酷な男と揶揄されている領主だが、その手は暖かい。にも関らず、彼は縋るように少女の手を固く握り続ける。
彼にとっては全力で握りしめているつもりであろうが、少女にとっては、振りほどける握力であった。
けれど、少女は振りほどかない。むしろ、彼女は彼の手を握り返した。彼女も同じだった。彼女も彼に縋っていたのだった。
自由を求めて、門の外へと飛び出した、奴隷の少女。
しかし、門の外に足を踏み出しても、彼女の内心に変化は生じなかった。相変わらず彼女の身体をなでる風は生暖かく、彼女を見る通行人たちの目は冷ややかであった。
門の外へ行ったとしても。
枷を外したとしても。
彼女は、自由になれなかった。
自由になれなかったのだ。
その時の少女は、足元が崩れおちるような虚無感に襲われた。膝から崩れ落ち、彼女の頬には涙がとめどなく流れ落ちた。
絶望に落ちる少女の背中に、振ってきた彼の声。
領主の声には少女を欲する、領主の切実な思いが宿っていた。
少女は泥だらけになった手を伸ばし、彼の手を握った。
彼のためではない。少女自身のためだった。
それから、彼女は何度も逃げた。
何度も、何度も逃げて。
しかし、そのつど彼女は彼のもとに舞い戻った。
彼女は本心では自由を追い求めていた。この檻の中から逃げ出したかった。けれど、同時に自由に恐怖を覚えていた。檻の中の怠惰な束縛を愛らしいと思ってしまっていた。
少女は領主の手を引いて、彼の胸の中に飛び込んだ。
温かさに埋もれて、少女は目を閉じる。
固く固く、目を閉じた。
今、このときだけは、
どこにも、逃げることはなかった。