ビュー・オブ・デンティスト2
九時半になりスタッフが動き始めた。
この歯科医院は十時からなので準備を三十分前から進めておくらしい。
かりんはメモとペンを片手に小烏丸さん達衛生士を追いかけていた。
「薬液はそことこことあそこに置いて、タービンのカラまわしをして……」
小烏丸さんは丁寧にかりんに説明した。かりんはとりあえずいっぱいメモをした。なんだかわからずバタバタしているうちに診療十分前になった。
「おはようー。諸君!」
いきなり男性の声が響いた。あの電話の声の主だとかりんはすぐにわかった。
慌てて声の聞こえた方を振り向いた。
すぐ後ろに長身の男性が立っていた。
短く切りそろえた黒髪に眠そうな目、真っ白の白衣に下は黒いズボン、そしてどこで見つけてきたのかわからないカラフルな色の靴。
はっきり言って奇妙な格好だ。
「あ、あの……」
「ああ、君が新人か!俺はここの院長!よろしく!……おーい!五十分だぞー!ドア開けろー!十分前には開けとけー。」
院長はかりんに微笑みかけた後、奥でバタバタしているスタッフに声をかける。
「うるせぇな!わかってるよ。ああ、アヤ、ちょっと前開けて来てくれよ!」
小烏丸さんがアヤさんにドアを開けるように頼んだ。
「はーい。」
アヤさんが返事をし、院長の前を横切る。
「アヤちゃん、おはよう!今日も元気だなあ!」
「ええ。おはようございます。院長。」
テンションの高い院長を軽く流したアヤさんはさっさと前のドアを開けた。
「つれないね……。」
院長は少し残念そうだ。
「院長がいつも変わらないテンションですからこの医院のモチベーションが上がっているんですよ。」
アヤさんはさらりと院長をなぐさめた。院長の顔がまた輝く。
「ですが、あまり調子に乗らないでください。」
「……つれないね……。」
釘をさされた院長はまたしゅんと肩を落とした。
診療がはじまった。かりんは始め、院長のアシスタントから始める事になった。
「バキュームなんだけどね、そこだとちょっとやりにくいかな。」
院長は患者さんを治療しながらかりんにこっそり説明してくれる。
「あ。すいません……。」
かりんは手に持ったバキュームを患者さんの口から離す。
「どこに置くかわからない?」
「はい。すいません……。」
すると院長はかりんの手をとってバキュームを入れる位置を教えた。
手を握られたままのかりんは顔を赤く染めた。
……男の人にこんなにがっつり手を握られた事なんてなかった……。
大きくてあったかい手だなあ……。
「はっ!」
「ん?どうしたんだい?藤林君。」
「え?あ、なんでもないです。」
かりんはそんな事を思ってしまった自分を恥じた。
……何考えてんの……私。
今は診療中なのに……。それにしても優しい院長なんだなあ。
一応かりんも一年は別の医院で働いていた。治療内容はほぼわかっている。ただ、まだ経験が浅く上手にできないだけだ。
治療が終わり、院長が患者さんに説明を始めた。
「できれば歯は抜きたくないんですよねぇ……。
もうちょっと歯ブラシ頑張ってもらえますか?
あ、よろしければ衛生士の方で歯磨きの仕方お教えしましょうか?
藤林君、お願い。」
「は、はい!」
院長の説明で自分の出番が回ってくると思っていたかりんはすばやく指導用の歯ブラシを持ってきていた。
かりんがブラッシング指導に入った時、院長は電子カルテの入力に行ってしまった。
「右利きの人の場合、左上のほっぺた側が一番磨きにくいんです。普通にお口を開けて磨くとこのようにほっぺたがひっかかって奥に歯ブラシがいきません。」
かりんは患者さんに口を開けてもらい歯ブラシを入れた。
「このような場合、お口を軽く閉じるとほっぺたが伸びますので歯ブラシが奥まで入るんです。」
「へぇ……。」
中年男性の患者さんは歯ブラシを見ながら感心したようにうなずく。
「磨きにくい所から順々に磨いていくと磨き残しがなくなっていいと思いますよ。」
かりんは最後ににこりと微笑んだ。
もっと色々な指導法があるがいっぱい教えると患者さんもわかんなくなってしまうと思い、基本だけ教えた。
「おねぇさん、かわいいね。」
「え?」
中年男性はかりんに微笑む。
かりんはいきなりの事であわあわと顔を真っ赤にして答えた。
「え、ええと。私、そんなお化粧もしてないしもっとかわいい方もいらっしゃいますし……その……。」
かりんが焦りながら言葉を発していると後ろから院長の声がした。
「ん?終わった?」
「え?院長……あ、はい。」
かりんは素早く院長と変わった。
……ああ、びっくりした……。でもちょっとうれしいな。
あ、でも今の院長に聞かれてたかな……。化粧まったくしてないとか……。
ああ……恥ずかしい。
「じゃあ、藤林君、終わって差し上げて。」
「は、はい!エプロンとりますねー。」
かりんは院長の指示通りエプロンをとって終わりにした。
「ありがとう。」
「お大事にしてください。」
患者さんは頭を下げると待合室の方へと歩いて行った。
それと同時に誰かがこちらに向かい走ってきた。
「おーい。ちょっとちょっと藤林さん!」
慌てて走ってきたのは小烏丸さんだった。
「小烏丸さん?」
「あんた、ブラッシング指導の時、患者さんと顔近くねぇ?」
「え?」
「うち、キスすんのかと思った。あはは。」
「え?キ、キス!」
驚いているかりんに小烏丸さんは大爆笑をしている。
「もっと距離とったほうがいいぞ。
あれじゃあ、患者さんドキドキしちゃうだろ。
なあ?センセ。あんたもドキドキすんだろ?」
小烏丸さんは近くにいた院長に話をふる。
「ん?ま、まあ、若い女の子からそんな積極的にこられたらドキドキするねぇ。
俺も治療中、前かがみになっちゃうことあるけどさ、相手が男の患者さんだとほら……ねぇ?
男同士でなにすんだよ的なねぇ……?
俺は体勢にはちょっと気を使っているかなあ。」
院長も若干笑いながら言葉を話す。
「それによ、センセ、衛生士が何か処置する時にさ、胸が患者さんの顔にあたる時があってよー。
よく注意されんだ。患者さんにそんなサービスいらない!ってな。」
「風俗業になっちゃうからね。ほんと健全な病院なのに……。」
院長と小烏丸さんが楽しそうに話している中、かりんはぼうっと違う事を考えていた。
……胸か……もっと大きくないとダメなのかな……私って魅力ないからなあ……
「院長!」
かりんは院長を呼ぶ大きな声ではっと我に返った。
いつの間にか不機嫌そうな顔をしたアヤさんがカルテを一枚こちらにかざして立っていた。
「うわっ!アヤちゃん……。」
「十時半の患者さん来ました!RCTです!」
アヤさんはそれだけ言うとスタスタと歩いて行ってしまった。
「無駄口は昼休みにしろって事かな……。怖いね……。」
院長はふうとため息をついた後、
「藤林君、通して。」
とつぶやいた。




